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『せんせいのお人形 2』(藤のよう)

ひょんなことから女子高生・スミカを引き取ることになった昭明。高校教師である彼は、親から育児放棄され、基本的な生活すら自身ではおぼつかないスミカを教育することを決める。簡単に言えば、そういう物語だ。しかし、この物語は簡単には言えない何かが含まれている。comicoでも読めるので気になる方はそちらをご覧いただくといいだろう。

せんせいのお人形 | 藤のよう – comico(コミコ) マンガ

人が生きるとはどういうことか。人が生きる上で学ぶとは何を意味するのか。

その問いに真摯に向き合うとき、「真実」といったものは何の意味も持たない。私たちが自由意志など持たず、この世界の在り様はただの観念でしかなく、すべてが機械的に決まっていたのだとしても──そのような極端な世界設定を受け入れたとしても──、私たち一人ひとりの人生の意味が消えて無くなるわけではない。言い換えれば、私という主体とそれを取り巻く世界との関わり合いが失われるわけではない。

我思う故に我あり。そして、我を思わせるその世界との関わり合いは常に残り続ける。

所詮人生とは、一つの脳が見た(あるいは紡いだ)物語に過ぎない。だとしても、いや、そうだからこそ、私たちはその物語を大切にしていく必要がある。物語こそが、私たちだからだ。それを拒否するとき、待っている世界は『ハーモニー』のそれと重なるだろう。

では、学ぶことは何を意味するのか。それは、人生の物語の彩りを増やすこと、あるいはその視点を動かすこと、場合によっては、大胆に読み替えることだ。

物語を変異させること。ときには、自身を素材にして、新しい物語へと接続していくこと。それが学びの効能である。それは単なる知識量の増加でもないし、知能パラメーターのアップでもない。新しい物語の(つまりそれは新しい世界の)創造なのである。

この世界について知るとき、私たちは変化する。もちろんそれは私たちと世界の関わり合いも変えてしまう。あるいは、その動きこそが私たちにとっての「生きること」なのかもしれない。

たとえ私たちが死の先に単なる物質に変化してしまうとしても、いや、私たちの物語には必ず終わりがあるからこそ、その物語を十分に堪能しておきたいと願うのは馬鹿げているだろうか。私はそうは思わない。
死の先に世界が存在しているかは問題ではない。この世界が「本当」かどうかも問題ではない。私が生きているときに、この世界があると感じられることが、そしてそのことに価値を感じられることが大切なのだ。何かを学ぶことは、きっとそれを助けてくれるし、この物語は、それを全力で祝福してくれている。

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