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『実践 行動経済学』(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)

「行動経済学」に興味を持ったのは、この本からだったかもしれない。もともと心理学に興味があり、経済学にも興味があったので、そのハイブリッドとも呼べる行動経済学は実に魅力的だった。

本書はまず、人のモデルを二つ提示する。ヒューマンとエコノだ。ヒューマンはようするに現実的な私たちであり、エコノは経済学が想定するエージェント的な人である。エコノは、意思決定を行う際、必要な情報をきちんと入手した上で、自分にとってもっと合理的な(≒自らの選好にもっとも適する)判断をくだす。実に素晴らしい存在だが、現実の私たちはそのようなことをほとんど行っていない。情報を入手することすらしないし、したとしてもそこから適切な判断が下せるとも限らない。私たちは、──正確に言えば、私たちの脳は──バイアスを持ち、誤謬を生じさせる。エコノとは程遠い存在だ。

そこで登場するのが、「ナッジ」である。ナッジとは、ちょっとしたサポートを意味し、たとえば、変更が加えられている文章を保存せずに終了しようとしたときに確認のダイアログが表示されたり、文中に「添付」と書かれているにも関わらず何もファイルが添付されないままに送信ボタンが押されたときに、やっぱり確認のダイアログが表示されたりすることがナッジである(あるいはナッジ的である)。控えめな警告者というわけだ、
※nudge…注意や合図のために人の横腹を特にひじでやさしく押したり、軽く突いたりすること。

私たちはヒューマンであり、エコノと違って適切な情報が与えられれば自らの選好に沿い、功利を最大化できる選択ができるわけではない。だとしたら、ちょっとしたサポートが必要なのではないか。選択肢そのもの制限したり、強制的に何かを行ったりするのではなく、あくまで確認ダイアログを出すようなサポート。それが本書が提示するリバタリアン・パターナリズムが目指す方向である。

なんとなく矛盾めいた用語なのだが、個人の自由主義を尊重しつつも、必要な場面ではサポートの手をさしのべることを躊躇わないアプローチと言えるだろうか。言い換えれば、人間の弱さを認める自由主義というわけだ。

何も細かいところまで口を出す必要はない。私たちは自由意志なるものを有しているし、行動の結果を背負うことも(ある程度までなら)できる。また、失敗できることもまた自由の一部なのだ、という言い方もできるだろう。人から失敗の可能性を剥奪するのは、自由主義に反するわけだ。なにせ人間は失敗から学ぶことができる。いつまでも赤子のように手取り足取りしなくても、重ねた経験から適切な判断を下し、行動を行えるようになる。

が、そうは言ってもバイアスと誤謬からは逃れられない。また、人間が傾向的に間違えやすい課題というのもある。たとえば、短期と長期のメリットを比較するような課題、起こる頻度が極めて少ない課題、フィードバックが発生しない課題。こうしたものは人間にとって、克服するのが難しい課題である。そしてその課題が、人生に大きな影響を与えるような要素を有しているならば、多少自由主義の尊重を破ることになったとしても、助けの手をさしのべるのは人間存在を棄損するようなことにはならないのではないか。なにせ、あくまでその手はナッジなのである。

人が貯金が下手だからと言って強制的に税金でお金を集め、それを貯金させるようなことはしない。あくまで、選択肢としての貯金が選ばれやすいようにするだけだ。別の選択肢を禁じたり、経済的なインセンティブを付与することで無理矢理そちらに誘導することはしない。見せ方を変えるだけだ。表現を変えるだけだ。それによって、人々の行動にちょっとした変化をもたらす。拒絶したい人はいくらでも拒絶できるし、望む人はさらに追求することもできる。実に素晴らしいではないか。

無論これは哲学的な問題を抱えている。「人が健康で文化的に豊かに生きること、あるいはそれを目指すこと」が善なのかは確定しえないし、となればそれを微力であれ手助けすることもまた善であるとは言えない。よって、(パターナリズムという名前が示すように)ここには、多少の価値観の押しつけが含まれている。少なくともそれを否定するのは難しい。しかし、そのような押しつけすら拒絶するのなら、世界はアナーキーな方につっこむしかなくなる。「強盗に襲われて死んでいく人生の方が価値があるのだ」と言われても納得する人が少ないからこそ、警察という権力が存在している。そして、町をパトロールする警官が、犯罪を抑制していることは、基本的に悪いことではないとされている。だとすれば、人々が健康、金銭、環境に関して適切を思われる選択をしやすいように、少しばかりナッジするのはそれほど突飛な抑圧とは言えないだろう。警察権力は暴力に抗するために許容されているわけだが、さまざまな判断を歪めようと私たちに襲いかかってくる情報暴力に対する装置も必要ではないだろうか。

ともあれ本書は、タイトルに「実践」とついているように、行動経済学の知見の紹介だけでなく、それを現実の問題に応用し、施策化する提案にまで踏み込んでいる。この点が面白かったし、また行動経済学の魅力でもあろう。経済学のモデルを論じられても、個人にはあんまり意味がないのである。

人の脳はバイアスを持ち、誤謬を生む。その上でいかに「よく生きるか」。行動経済学の面白さはこの観点にこそある。

[追記]

2017年のノーベル経済学賞に本書の共著者であるリチャード・セイラーが選ばれたわけだが、そこから行動経済学に興味があつまり、日本でもその知見が広まることを願うばかりだ。

経済学はエコナと呼べるような人間のモデル(まさにそれはモデルであるし、モデルでしかない)を想定してその理論を構築してきたわけだが、それと同じようなことが他の人間モデルにおいても生じている。たとえば、ビジネスパーソンはバリバリ仕事ができる、一気に集中できる、24時間戦える、愛社精神に満ちあふれている、休みなんて必要ない、タスクが発生したら一日が24時間以上になる、追い詰めらるほど力を発揮する、等々だ。ネーミングを拝借するならビジノとでも呼ぼうか。他にも、完璧な奥さんとか、できのよい子どもとか、「そんな人間、どこにも存在しない」というイメージだけが先行し、それに基づいた制度が構築され、そこから省かれる人がどうしようもない事態に追い込まれる、というような状況が散見される。行動経済学的な人間の見方が広まれば、そうした状況も改善するのではないかと思う。

▼目次データ:

はじめにーー「自由放任」でも「押しつけ」でもなく

第1部 ヒューマンの世界とエコノの世界
第1章 バイアスと誤謬
第2章 誘惑の先回りをする
第3章 言動は群れに従う
第4章 ナッジはいつ必要なのか
第5章 選択アーキテクチャー

第2部 個人における貯蓄、投資、借金
第6章 意志力を問わない貯蓄戦略
第7章 オメデタ過ぎる投資法
第8章 “借金市場”に油断は禁物

第3部 社会における医療、環境、婚姻制度
第9章 社会保障制度の民営化――ビュッフェ方式
第10章 複雑きわまりない薬剤給付プログラム
第11章 臓器提供者を増やす方法
第12章 われわれの地球を救え
第13章 結婚を民営化する

第4部 ナッジの拡張と想定される異論
第14章 一二のミニナッジ
第15章 異論に答えよう
第16章 真の第三の道へ

あとがきーーヒューマン投資家と二〇〇八年金融危機

実践 行動経済学
リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン 翻訳:遠藤真美 [日経BP社 2009]

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