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『ライティングの哲学』(千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太)

副題は「書けない悩みのための執筆論」。

後ほど見ていくが、少し変わった本である。帯には「読めばあなたも書きたくなる執筆論!」とあるが、まずこの本について何かしら言いたくなる。そんな魅力を備えた一冊だ。

たとえば、表紙だ。表紙がズルい。あらゐけいいちの表紙イラストは、渋さとかわいらしさの両方が出ていて、こんなのもう手に取っちゃうに決まっている。

あと、執筆陣も豪華だ。特に読書猿と千葉雅也の組み合わせは、人文系+ノウハウ書において現状考えうる最強のタッグかもしれない。

しかし、である。本書において極めて目を引くのは、むしろ残り二人、すなわち山内朋樹と瀬下翔太の原稿なのだ。その辺は、本書のテーマとも関わっている。

では、そのテーマとは何かと言えば、「書けないこと」だ。書こうとしても書けない。書かなければいけないけれども書けない。そういうシチュエーションに各執筆陣がいかに向き合い、いかに悪戦苦闘し、いかに脱稿への道のりを歩んでいるのかが赤裸々に語られる。まず、この点が特異と言えるだろう。

基本的に、執筆ノウハウは「書ける人」向けであり、もっと言えば「こう書きましょう」と言われて、素直にそれに応じられる人向けに書かれている。しかしながら、そうは問屋が卸さないのが「書くこと」の難しさだ。最初にしっかりアウトラインを立てて、それから書きましょうというありふれた、ほとんど正論とも言えるアドバイスは、ときに書き手をひどく苦しめる。

よって本書が「アウトライナー座談会」から始まっているのは必然とも言えるだろう。アウトライナーこそが、そうした苦しみを象徴するものでありつつ、またそれを緩和するものでもあるからだ。具体的な話は本書やTak.による数々のアウトライナー本に譲るが、簡単に言えば「最初にしっかりアウトラインを立てて」みたいな話とは、まるで逆のスタイルで執筆を可能にしてくれるのがアウトライナーなのである。いわば、「スラスラと文章を書けない人のためのツール」こそが、アウトライナーのアウトライナーたる所以と言ってもいい。にも、関わらず、私たちの頭にこびりついている「事前のしっかりアウトライン」幻想が、そのツールの使い方を偏らせてしまうのだから、困ったものである。

しかしまあ、そういう「困ったこと」は何もアウトラインとの付き合い方に限った話ではない。文章の書き方全般に、私たちの脳には「しかるべき文章の書き方」がインプットされていて、ほとんど無意識レベルでその書き方に沿うとしてしまう。

では、その「しかるべき文章の書き方」とはどのようなものかと言えば、巷で流通する執筆に関するアドバイスなのである。実際の執筆のどろどろした部分、試行錯誤している部分、明日には変化しちゃうかもしれない部分を捨像して、「きれいに」整えられたアドバイスやノウハウの数々が私たちにおける「書き方」の規範性を構築してしまう。言い換えれば、私たちにとっての「書く」という行為が、そうした規範性に則ったものに変質してしまう。

だからこそ、本書で千葉が言うように「書かないで、書く」という逸脱の試みが有効なのだ。自らの中に築いている、しかし行為の遂行にほとんど役立たないばかりか、苦しみの原因となる規範性を立ち上げないようにするのである。

読書猿の「断念」というキーワードも同じ感触で受け取れるだろう。こちらは「本とは、このような(立派なもの)である)」というある種の理想をばっさりと切断するのだ。また、そうした理想は、別の言い方をすると書かれる本の内容を自分の「意のままにしたい」という欲望の現れでもある。そういう支配欲求は、基本的に無尽蔵な時間を持たない限りは厄介者に過ぎない。アウトラインの細部にわたって、自らの「意志」を反映させたいなどと願っていると、いつまで経っても本文は進まず、その間神経すり減るばかりである。まったくもってヘルシーではない。

言うまでもなく、そうした支配欲は幼児性なのだ。子どもは自分の思うようになっていないとすぐに駄々をこねるが、あれと同じなのである。本の執筆の場合は、情報的行為であり、あたかも自己だけで完結させられるように感じるが、やっぱりそうは問屋が卸さないのである。「こう書くべき、こう書きたい」という意に自分の(能を含めた)肉体が対応できる保証はない。だからどこかの時点で、その思いを切断する必要がある。何もかもを捨て去るというよりは、一部を置いていくような感覚で。

思うに千葉が「散文を書く」で述べているある種の放任主義的な書き方は、自分の「意」が表に出過ぎない書き方だと言えるが、それでも「なんとなる」のである。ただし、本当に何の「意」も働かせる必要がないかと言えば、私はそうは思わない。むしろ、千葉が以前までかなりキチッキチに書いてきた経験があるからこそ、それらをすべて手放しても「うっかり」残ってしまう制御があって、それが一定のまとまりを構築しているのではないかと思う。たとえば、私は小説を書くときはノープロットで進めていくのだが、私の無意識は間違いなくこれまで読んできた文章からある種のパターンを抽出して今自分が書いている文章へと投影しているだろう。それで十分に物語は成立してしまうのである。

むしろこう言えるかもしれない。これまで散々に蓄積してきたものを、すっと出せるようにするためには、むしろ「意」が邪魔なのだと。意を取り除いてなお残ってしまう構造やパターンや筆はこびこそが、その人が身体化している情報の座組みとなるのではないか。

そのように捉えれば、読書猿が無能フィルターと呼んでいる手法との呼応が見えてくる(ちなみにこの手法は私がバザール執筆法と呼んでいる方法とほとんど同じである)。ゼロから書き直すことで、自分の頭が咀嚼できたものだけが残る。意によるコントロールを排した後に残る、ナチュラルな情報構造体。それをベースに執筆を進めるのが一番ヘルシーだということは、私も実体験を通じて感じていることである。

さて、長くなったがここからが本番である。上記二つの話は、言って見れば「執筆論」として(ややトリッキーではあるが)ごく一般的な話である。ここで言うトリッキーとは、『読んでいない本について堂々と語る方法』がトリッキーな内容という程度の意味合いだ。見せ方の角度はやや奇抜だが、たしかに読書論であり、むしろ骨太の読書論である、という類いのトリッキーさ、ということだ。

では、山内の「書くことはその中間にある」はどうだろうか。話の前半はたしかに執筆に関する話だし、しかも冒頭に掲げられる「渾沌さん」のエピソードは、──特に教員のセリフは──胸に迫るものがあった。結局のところ、「渾沌さん」を生かしたまま目鼻をつけられるとしたら、それはもう自分の肉体を拠り所にするしかないのだろう。神降ろしとしての執筆。そこで必要なのが、私という肉体なのである。

だからだろう。後半部分では「ログ」の話が出てくる。簡単に言えば作業記録だ。むろん、作業記録をつけることは、原稿を書くことではない。生産性で言えばゼロに近い行為である。ただしそれは「原稿」の次元で考えれば、という留保がつく。この世界には原稿があり、その原稿を書く私という主体がある。その主体は肉(体)を持って存在している。いちいち文章で書かなくても自明のことだ。しかし、それを忘れてしまうのが執筆という行為なのである。

作業の「ログ」をつけていると、否が応でも自分の肉体を確認することになる。自覚することになる。書こうとして書けないとき、あるいは予想外に書けるとき。それは書いている内容に影響を受けることもあるし、まったくもって肉体的な状況に影響を受けることもある。というか、ほとんどそれだけではないかとすら思う。村上春樹がランニングを書かさないでいることにも同じような感覚があるのかもしれない。まず肉体があり、そして主体が立ち上がる。その逆ではないのだ。

ここで私たちは思い出すことになる。執筆技術の話は、徹頭徹尾「原稿の次元」の話に留まる。しかし、私たちは生活者であり、そうした生活の中で文章を書いているのだ。だから「文章」のことだけを考えて入れば、すべてが丸く収まる、などということはない。むしろ、原稿を書いていない時間こそ注意を向けるべきかもしれない。そこに肉体が存在しているからだ。

一方で瀬下の原稿は実にロックだ。「いいぞ、もっとやれ」と応援したくなる。書き方のアプローチとしては「書かないで、書く」に近いだろう。素材集めとしてのメモ(やそれに準ずるもの)を大量に集め、それらを組み立てる気持ちで原稿を作り上げていく。KJ法的とも言えるし、少し違うとも言える。非常に実用性の高い話だ。

しかし、一番良かったのは(そして周りの感想で伝え聞く分でも高評価だったのは)「バカンス」である。

「バカンス」とは、「原稿」の進捗度合いや締切をすべて無視して、行ってみたい場所や泊まってみたいホテルに宿泊することだ

私からすると、バカンスこそが身体性の復興である。ある種、反動的な態度に思えるかもしれないが、別に盗んだバイクで走り出そうとしているのではない、原稿を仕上げるためにむしろ一度それを捨てているのである。そうして肉体的に移動することで、自らの意を一旦クールダウンしているのだ。身体がそうなっちゃったら、もうしゃーないよね、くらいの諦念がここにはあるし、それを鋭く責め立てる声があるとするならば、その声の方こそが間違っているのだと私は言いたい。

もちろん締め切りは遅れるべきではないだろう。言い換えれば、遅れるか、遅れないかで言えば遅れないほうが望ましい。しかし、遅れないことを死守するあまりに、失われてしまうものがあるのならば、そこは落ち着いた方がよい(そもそも、死守という言葉の響きからして危うい)。「遅れるべきでない」という意に、身体がついていけるかどうかはまた別の話なのだから。でもってこれは、言うまでもなく執筆&締切の話に限定されるものではなく、現在の日本社会全般に射程を持つ話だと言える。

なんにせよ、こんなことを言っているノウハウ書はほとんどどこにもないだろう。しかしこの言葉は、どん底の中の一つの希望として光り輝くものだと感じる。

というわけで、ずいぶんと奇妙な内容の本である。ここで言う奇妙とは「前例がない」という程度に受け取ってもらっていい。つまり最高の褒め言葉である。

もう一点だけその「奇妙さ」に付け加えるとすれば、本書はノウハウ書にしてはかなり珍しく、時間が(もっと言えば歴史が)埋め込まれている。ある時点のノウハウが開示されるだけでなく、その後の各自の状況も語られている。一般的に、ノウハウ書とは「すごい人の完成した技術」が語られるだけで、その後の話は出てこない。もしかしたら、まるっとやり方が変わっているかもしれないのに、読者の中では時間はとまったままであるのが普通だ。つまり静的なのである。

しかし本書は実に動的である。ある時点からの変化が語られているし、当然それは線を先に延ばすことでさらなる変化があるだろうこともうかがわせる。でもって、人のノウハウなんてそのようなものではないだろうか。問題が起こり、それを解決するために工夫して、一定の決着を見せるが、結局また別の問題が出てきて、それを解決するために、という話が延々と続いていくものではないか。

だからこそ拙著『すべてはノートからはじまる』では、技法を見出しとして立てずに、論述のまとめとしてその後に提出する形にしてある。イデアとしての技法から、一時的な問題解決としての技法へのシフト。そのような付き合い方こそが、技法とのヘルシーな付き合い方ではないだろうか。自分が提唱した技法から抜け出られなくなることほどつらいものはない。言うまでもなく、それもまた「意」が強すぎることで起きる現象なのである。

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