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『意味がない無意味』(千葉雅也)

千葉雅也さんの論集。目次をご覧いただくとわかるが、話題が非常に広い本である。

冒頭の「意味がない無意味──あるいは自明性の過剰」が、本書全体を照射しているのでまずここを読み、その後は気になる項目を拾っていく読み方ができるだろう。

大きな括りとして「身体・儀礼・他者・言語・分身・性」が設定されているが、読んでみるとこれは非常に暫定的なものだと感じるくらいに、それぞれの項目に呼応性がある。大きな括りを飛び越えて、あの話とこの話は呼応しているな、と響きを感じ取ることができる。読み手に委ねられている部分が非常に大きい。そういう本だ。

さて、本書のタイトルである「意味がない無意味」とは何だろうか? このまったくのトートロジーは何を示しているのだろうか。

著者は無意味に二つの相貌を見る。一つは、「意味がない無意味」に対峙される「意味がある無意味」だ。意味がある無意味とは何か。それは過剰な意味を持つもの、著者の言葉を借りれば「無限に意味が過剰なもの」「無限に多義的なもの」となる。そのように多重の意味が重なったものは、私たちには扱えない。よって、それは無意味となる。

あらゆるものは、この「無限に多義的」なものであり、私たちはその場その場で、そこに有限的な意味を見て取る。一部分を切り取る。解釈する。そうして何かしらの、限定的な、一時的な、暫定的な意味を取り出す。そして、その行為を延々と繰り返していく。なにせ対象は無限に多義なのだから。

「意味がない無意味」は、そのような多義性に接続していない。むしろそれを──それこそ何の意味もなく──遮断してしまようなものである。「意味があるかないか」という問いすらも置き去りにしてしまうもの。ただそうであるからそうであるようなもの。たとえば、本書に収められたさまざまな文章が、そう意図されたわけではなくても、呼応してしまうかのように。

著者は、そのような二種類の無意味を認めつつも、それを荒々しくナイフで切断したりはしない。

だが、二つの無意味は、同じ場所で重なっているのかもしれない。
同じ場所が、同時に穴であり、蓋でもある。意味を発生させる何かが、意味を遮断する何かにすり替わる。意味を遮断する何かが、意味を発生させる何かにすり替わる。我々の日常ではそうしたすり替わりが起きているかもしれない……おそらくは偶発的に。

この引用箇所に立ち現れる、繊細さと遊び心(と呼ぶしかないもの)は、本書全体からも強く感じられる。

著者は、クリスチャン・ラッセンに目を向ける。フランシス・ベーコンに、ギャル男に、プロレスに目を向ける。そして、それを評価する。でも、逆張りのような乱暴な手つきではない。マイナスだからすごいんだ、ということでもなく、そこにあるマイナス性を視野に入れながら、しかし、それが新たな価値を持つであろう軸を見つけ出そうとする。

ここにあるのは、AかBかという単純な選択ではない。Cという新しい選択肢の止揚でもない。ここにあるのは、AとBが明滅するような新しい場の創出である。そう、「同じ場所で重なっているのかもしれない」のだ。

そして、同じ場所で重なっているからこそ、入れ替わることができる。あるいは、入れ替われるかもしれないと思いを馳せることができる。たまたま、まったくの偶然で、穴と蓋が逆転してしまうことがありうるかもしれない、ということを想像すること。それがいかに遊び心に溢れ、豊かであり、それでいて有限的であるのか。

本書は中身がたっぷりつまっているし、私では本書で展開される哲学的な議論の是非を判断はできないが、そんなことはまったくおかまいなしに楽しめる一冊である。

▼目次データ:

意味がない無意味──あるいは自明性の過剰

I 身体
思考停止についての試論──フランシス・ベーコンについて
ズレと元々──田幡浩一「one way or another」展に寄せて
パラマウンド──森村泰昌の鼻
不気味でない建築のために

II 儀礼
世界の非理由、あるいは儀礼性──メイヤスー『有限性の後で』から出発して
あなたにギャル男を愛していないとは言わせない──倒錯の強い定義
さしあたり採用された洋食器によって──金子國義への追悼
四分三十三秒のパラダイス

III 他者
美術史にブラックライトを当てること──クリスチャン・ラッセンのブルー
思弁的実在論と無解釈的なもの
アンチ・エビデンス──九〇年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと節約

IV 言語
言語、形骸、倒錯──松浦寿輝『明治の表象空間』
批判から遠く離れて──二〇一〇年代のツイッター
緊張したゆるみを持つ言説のために
此性を持つ無──メイヤスーから九鬼周造へ

V 分身
独身者のソォダ水──長野まゆみについて
タナトスのラーメン──きじょっぱいということ
別名で保存する──『海辺のカフカ』をめぐって供される作品外

VI 性
マラブーによるヘーゲルの整形手術──デリダ以後の問題圏へ
エチカですらなく──中島隆博『『荘子』──鶏となって時を告げよ』
単純素朴な暴力について
力の放課後──プロレス試論

意味がない無意味
千葉雅也[河出書房新社 2018]

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