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『一般意志2.0』(東浩紀)

現代の情報技術の方向性を、ルソーの思想を通して読み解くことで、民主主義あるいは国家の新しい形を模索する、という刺激的な一冊。

著者は一般的なルソー読解とは違うと断った上で、民主主義の出発点とも言えるフランス思想家のテキストを解釈していく。おそらく、肝となるのは以下の部分だろう。

もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションも取らないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう。

ルソーは大胆なことを言っている。一般意志なるものを発現させようと思えば、市民は互いにコミュニケーションを取らない方がよいと言うのだ。著者はこれを「一般意志の成立過程において、そもそも市民間の討議や意見調整の必要性を認めていないのである」と捉える。

ここで思い出すのが、2008年に公開されたクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』である。この作品では、敵役ジョーカーがバットマンと市民を恐怖のどん底に突き落とすのだが、その一策として彼は爆薬を詰め込んだ二隻のフェリーを準備する。片方には一般市民、もう片方には囚人たちが乗っている。両方のフェリーは深夜12時に爆発することを告げられるが、手元にあるスイッチを押して、相手のフェリーを爆発させれば、自分たちは助かると選択を迫られる。緊張感のあるシーンだ。

ダークナイト (字幕版)
『ダークナイト』

当然のように一般市民からは、「囚人なのだから、爆破してしまえ」と声が上がる。囚人たちも、放置しておけば自分たちが爆破されるのは火を見るよりも明らかなのだから、先制攻撃が必要であると息巻く。興奮する船の中で、一人の警察官(あるいは軍人)が市民に向かって「これは話し合うことじゃありません」と言う。もちろん、反論が飛び交い、そのうち誰かがぼそっとこぼす。「多数決で決めよう」

結果、紙に書いて投票する手段が選ばれた。人類が手に入れた、もっとも高潔な決定方法だ。一人ひとりペンを回しながら、投票を進めていく。結果はどうだったか。爆破反対が140票、賛成が396票。爆破決定だ。

しかし、場は沸き立つどころか、あることを思い知らされる。そんなに悠長に投票していたにも関わらず、自分たちの船はまだ爆破されていないのだ。これが意味する事実は重く、一般市民も考えさせられる。誰しもが死にたくないと思う。しかし、自分たちの決断で、自らの行いとは関係無い人間に罰を与えるようなこともしなくない。人の心は常に揺れ動きながら、一つの大きな方向を目指して進む。時間をかけた投票活動は、単純な人の決定の多寡よりも大きいものを露わにした。民主主義が決定的に必要としているものである。

もし、一般市民側の多数決が、その場による挙手であれば、自体はもっと早急に、そして劇的に展開していただろう。周りの人間が手を上げれば、悩んでいる人間も手を上げやすくなる。49:51で揺れているような人間ですら手を上げてしまう。そして、満場一致が生まれ、その興奮のまま起爆のスイッチは押されていただろう。人類の中で、きっとそのようにして悲劇は起きてきた。

紙に是か非かを書き込むとき、その決断がどちらであれ、自分の心と対峙することになる。自分の判断が100%正しいとは言い切れない気持ちを持っていることに気がつかされる。熟慮すること、熟議することの本質はそこにある。じっくりと何かを行うということは、時間をかけるということなのだ。そして、それだけが明らかにしてくれるものがある。

人と人とが過剰につながってしまうと、反応が他者に強く依存することになる。49:51で揺れている気持ちが、100:0にシフトしてしまう、あるいはそのように説得されてしまう。そのようなものをどれだけたくさん集めても、それは数の暴力でしかないだろう。むしろ、人々の気持ちが揺れる、49:51やら47:53やら、そういったさまざまなバランスをそのまま集合させ、そこにある微妙な差異をつかみ取れたとき、はじめて集団の意見というのは「一般性」を帯び始める。

著者は、グーグルなどの巨大企業が私たちの行動をログ化(データベース化)している現状を指摘し、そのデータの集合体を利用することで、人々の心の内側(無意識という表現は私はここでは使わないようにしておく)を汲み取った方策が、熟議を通さずに実現できるのではないか、という可能性を示すのだが、別段そのようなアンチ国家を構築せよとラディカルな提案をするわけではない。むしろ、示される方向は現実に着地点が見つけられうるものである。

いくどでも繰り返すが、著者は決して、国家の運営を直接に大衆に委ねることは提案していない。国政レベルの政策立案や利害調整は、膨大な知識と繊細な配慮を要求し、アマチュアがやすやすと参加できるようなものではない。これは当然のことである。

しかし、と著者は付け加える。

しかしそれでも、大衆も「感想」を漏らすくらいはできる。それも、肯定か否定かを叫ぶだけではなく、もう少しニュアンスの伴った、複雑で多様な感想を発することができる。そしてそれらの感想もまた、収集し分析すれば貴重な政策資源になる。

少なくともこの点において、著者は大衆に希望を抱いている。たしかに大衆も「感想」を漏らすくらいはできるだろう。しかし、できるからといって必ずそうするとは限らない。また、ネットで過剰に人が接続している現在では、むしろポピュリズム的な同一行動、他者の説得によって生まれる行動が増えているのではないだろうか。そこで出てくる「感想」は、なんのニュアンスもない、botで十分代行可能なものである。さすがにそれはノイズでしかなく、分析対象にもならないだろう。政策資源として掬い上げるようなものが含まれているとも思えない。

とは言えである。

著者の眼差しには共感できるし、また問題解決のアプローチには驚嘆を覚える。日本人は「空気」によって行動することが多く、言葉を尽くす熟議が苦手である。しかし、熟議こそが民主主義の根幹をなすのだ。だから、日本人も熟議できるようになりましょう、というマッチョな方向に進むのではなく、むしろその「空気」を熟議の方に向けて絡ませることはできないかと考える。そしてそのために、既存の「民主主義」を根本から考え直す。それが「一般意志2.0」で模索されていることなのであろう。

それは、以前紹介した『消極性デザイン宣言』と呼応する点が多いように思われる。声なき声を、声でない形で拾う。技術がはじめて可能にした、コミュニケーションとは違った意志の交換方法。それを国政へと反映させることで、今までとは違った形の、国民に(あるいは国民が)寄り添う政治が生まれるかもしれない。

一般意志2.0の世界においては、大衆の私的で動物的な行動(データベース)が、情報技術により集約され可視化され、政治家や専門家たちの公的な合意形成(熟議)を制約することになる。動物的行動の集約が人間的判断を制御する。

エリート支配にせよ、ポピュリズムにせよ、どちらの場合でもその力学は単純である。そして、単純なロジックしか持ち得ないものはたいてい脆い。二大政党制とも言われるのだが、熟した先進国でそれほどわかりやすい対立軸が生まれることは稀である。対立と緊張によって、適度なバランスが保たれるはずの政党の力学は、現在では機能不全に陥っているのかもしれない。そこに新たな力学を持ち込もうというのが、一般意志2.0なのであろう。静的に固まるのではなく、常に動的な平衡が生まれるようにすること。熟議のための作法も用語も知識も持たない人間が、議論とは別の形でそこに参加できるようにすること。

もし本当にそれが実現できたのならば、それは2.0と呼ぶのに相応しいものになるであろう。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)
東浩紀 [講談社 2015]

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