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非体系的な書き方-独学大全に想う

少し前に以下の記事を読んだ。

読書猿『独学大全』~待ち焦がれた傑作、それでも、足らないもの|ばる|専業読書家(人文学)|note]

記事全体で指摘されている点は理解できる。しかし、それは決して手に入らない願いというものだろう。むしろ、それを手にしようと腕を伸ばした瞬間に、土台もろとも崩れ去ってしまうような、そんな危うい誘惑であるようにすら思える。どういうことか。

おそらく記事を書かれた方は、独学初心者が迷ってしまうことを心配しておられるのだろう。体系という指針を示すことで、言い換えれば、独学初心者の手を引くようなアプローチを行うことで、そうした迷いを払拭できるようになるし、そうなるべきだと考えておられるに違いない。きわめて優しい心遣いである。

しかし、まず第一にそもそもが、そうした体系化の外にあることを欲するのが本書における独学者の定義であった。既存の学習では満足できない人間が、自分で学びをデザインしようとするとき、その歩みを独学だと言う。仮にそれを行うのが独学の先達だとしても、他者が誰かの学びをデザイン(ないしは体系化)しようとするとき、それはもはや独学ではなくなる。「独学」という看板がついた何か別の行為なのだ。それは本書が望む帰結ではないだろう。

独学を続けていく上で、避けては通れないのが、結局は「挫折」なのだ。人間は、それだけではうまくいかない、というのが本書の全体を通して伝わってくるメッセージである。もちろん、そのメッセージの上に「しかし、何かできることはある」という希望もある。それがなければ、一体誰が歩みを続けられるだろうか。とは言え、そうした希望は挫折の可能性を抹消するものではない。

だから、『独学大全』は非体系的に書かれざるを得なかったし、そう書かれてよかったと個人的には感じている。

適当に気になった技法に取り組んでみる。うまくいくかどうかはわからない。ただちょっと気になっただけ。そんな馬券でも買うような気持ちで取り組む技法は、もちろん成功を約束されてはいない。そしてそれは、独学全体に通していえることなのだ。独学を為せば、何かが(特に社会的成功が)得られる保障はどこにもない。うまくいくかどうかはわからない。「それでも」やってしまうのが、独学であろう。

一度挫折しても、別の技法を試せばいい。そんな優しさが本書には詰まっている。もし体系化して、その体系が読者に合わなかったとき、読者の挫折は決定的なものとなってしまう。それはとても悲しい結末である。だから、非体系がいいのだ。失敗や挫折を前提とした、戸惑いや逡巡を考慮した非体系が。

著者は、自分自身を含めて人間の不完全さを理解している。

著者は、しかし人間がそれぞれ自分の足で歩いていける存在だと認めている。

誰かにぎゅっっと手を引いてもらわなくても、自身の知的好奇心と、遠くに見える同じように歩く人たちの背中に引かれて、歩いていくことができる存在だとそう願っているのである。

人間はバカだし、バカではない。そしていつかは、自分の歩みを自分でデザインする必要が出てくる。それは同時に、誰のせいにするでもなく、その結果を(可能なだけ)引き受けようとする行為でもある。

だから、『独学大全』はこのような書かれ方で良かったのだと思う。不十分だと思えるその欠落は、著者からの人間への信頼であるのだから。

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