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『遅いインターネット』(宇野常寛)

なぜ今遅いインターネットなのだろうか。あるいは、「なぜ今さら」と言い換えてもいい。もちろん、パケット代を節約するためでないことは確かだ。

先に目次を確認しておこう。

序章 オリンピック破壊計画
第1章 民主主義を半分諦めることで、守る
第2章 拡張現実の時代
第3章 21世紀の共同幻想論
第4章 遅いインターネット

まず、「第1章 民主主義を半分諦めることで、守る」だが、ここで半分諦められる民主主義とは何だろうか。著者は、現代の民主主義が抱える問題を以下のように捉える。

現代社会では、国家に囚われずに生きていける人間がいる反面、国家に頼らざるを得ない人間もいる。前者のような人間は、今住んでいる国の政治に高い関心を持つことはない。いざとなったら、もっと住み心地の良い国に移住すれば済むからだ。

一方で、後者のような人間は、政治に高い関心を持つ。著者の言葉を借りれば、それこそが(つまり政治との接続こそが)「世界とつながっている感覚」を醸成するものだからだ。そのような人々は、その性質からしてグローバリズムに開かれた政策ではなく、ナショナリズムな、つまり分断的な政策を好むことになる。

こうして、投票権を持つ人間の性質と投票傾向が絡むことによって、選択される政治思想は必然的にナショナリズムに陥っていく。自由と平等を常に目指すのではなく、誰かの権利を手厚く守るために、別の誰かを切り落とすことを厭わない方策が選択される。

よって、民主主義をそのまま完全に信頼することはできない。だから、半分諦めることで、結果として民主主義が守ろうとしているものを保守しようというわけだ。

著者は、この民主主義のバランスが崩れた状態に対して三つの処方箋がありうることを提示する。一つは、民主主義と立憲主義のパワーバランスを後者に傾けること。もう一つは、情報技術を用いてあたらしい政治参加の回路を構築すること。最後の一つが、メディアによる介入で僕たち人間と情報との関係を変えていくことだ。そして、遅いインターネットはこの点に関係してくる。

が、その点は後に回すとして、話を先に進めよう。

第二章「現実拡張の時代」では、情報技術とエンターテイメントの発展を追いながら、以下の四象限が設定される。

・自分の物語・他人の物語
・日常・非日常

それぞれ、映画(他人/非日常)・テレビ(他人/日常)・生活(自分/日常)・祝祭(自分/非日常)が対応させられている。この構図は、メディアの見通しを良くする効果的なものだが、個人的には少し物足りなさもある。私見で言えば、この四象限は、四象限としてきれいに切り取られていることそのものが、行き詰まりなのだ。むしろ「自と他」が交じり合う場所に、「日常と非日常」が交錯する地点に、新たな突破力(想像力と言い換えてもいい)が生まれるのではないか。

この章で論じられる現実拡張の話とも重なるが、私たちはどこまでも「現実」につきまとわれる時代に生きている。そこでは、「現実」を別の物語に読み替えることを赦さない断絶が壁のように屹立している。あくまで「私」は「私」であり、「日常」はどこまでいっても「日常」なのだ。その閉塞感は、奇妙なほどにナショナリズムの閉塞感と重なって見える。

続く第3章「21世紀の共同幻想論」では、現代の情報社会環境から吉本隆明の「共同幻想論」が読み直されている。非常に刺激的な章だ。

共同幻想からいかに「自立」するか、という問題意識(および問題設定)が、実は問題を抱えているのだ、という指摘はたしかにその通りだろう。バラバラの個が、それぞれに自立を目指すというボトムアップ型のアプローチは、うまくいかない。ごく単純に考えても「私は私、他人は他人」という閉じた世界を無数に生み出すだけだろう。もちろん、たった一人だけの力で生きている人間などは誰もいないわけだから、その世界観は極めて幼稚なものと言わざるを得ない。逆に言えば、バラバラの個のボトムアップは、肥大化した自己幻想を生むだけなのだ。他者のことはどうでもいい、という態度、つまりセルフ・ナショナリズムに陥るだけである。

そこで第4章「遅いインターネット」に入る。今なぜ遅いインターネットなのか。

まず国家が共同幻想であり、家族(が大切という考え方)も共同幻想であるにせよ、その幻想はまったく無意味なものではない。社会的なつながりを維持するための機能は確かにある。そのような幻想をすべて取り去ったら、人は自由に生きていけると考えるのは、甘い見通しである。結局のところで、人は別の幻想にすがることになる。

よって、(共同)幻想を棄却する方法は目指さない。しかし、幻想を「現実」だとして、どっぷり浸かりきるのは危険である。だから、幻想とどのように付き合っていくのか、という話になる。何かしらの幻想は必要だとして、それを暫定的に引き受けたとしても、必要があれば、その幻想を別の幻想に読み替えていくこと、言い換えれば新たな物語を紡げるようになること。そのようなスキルがあれば、セルフ・ナショナリズムにはまるのは避けられる。

そこに「遅いインターネット」が効いてくるのだと著者は述べる。

実際著者がとっている施策が本当に有効なのかどうかは私にはわからない。それでも、人を考えさせない(≒考えることをさせてくれない)道具になりつつあるインターネットを、再び人が考えるための道具に「読み替えていく」ことは有効だと共感できる。

きっと、「遅いインターネット」によってもたらされる変化もまた「遅い」ものだろう。しかし、それで良いのだと思う。早い変化に慣らされすぎた私たちは、まさに民主主義に向かない人間になってしまっている。なぜなら、民主主義とは時間をかけ、間違いだとわかったものを正し、少しずつ進んでいくための装置だからだ。そこに拙速な成果を求めること自体、誤ったスタンスである。

その意味で、私たちはインターネットの使い方も、民主主義の使い方も、まだ十分には知らないのだろう。

宇野常寛 [幻冬舎 2020]

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