『デッドライン』は文体や内容に関しても衝撃的な作品ではあるが、私は次の箇所が猛烈に突き刺さった。
ゲイは数が少ないのだという実感がなかった。街で見かける男のほとんどがノンケだなんて、嘘みたいに感じる。この無数の男たちが女しか好きにならないなんて、僕を騙すための壮大なドッキリなんじゃないかと思う。
私はこの主人公のモノローグを読んで、「まるでJ-popの歌詞みたいだな」と思った直後、そのような歌詞を持つJ-popなどこの日本にはついぞ現れなかった(少なくともランキングを賑わすことはなかった)事実を確認して、頭が後方3mくらいに吹っ飛ばされそうになった。
少数派であるということは、たやすく共感できるコンテンツがカルチャーから提供されない、ということなのだ。そこで生じる孤独とは、いったいどのような性質を持つものなのか。そんな問いすら、私は立てたことがなかった。まったく見えていなかったのだ。
主人公はその後に、こんな欲望を吐露している。
もったいない。バカじゃないのか。抱かれればいいのに。いい男に。
そのような欲望がこの世界に存在することも私には見えていなかった。もちろん、ゲイという言葉は知っている。その人たちがどういう性的嗜好を持つのかも、知識としては理解している。でも、この世界においてゲイとして生きるというのは、どのような感じがするのか、どういう欲望がそこに付きまとうのかについてはまったくわかっていなかった。それはほとんど何も知らないことに等しいだろう。少なくとも、人が生きるという平面ではそう言えるはずだ。
文学というものの役割が、「そうであるかもしれない人生」を仮想的に体験させるものだとするならば、本書はすさまじい一撃を持って(しかし、おどろくほど繊細に)それを成し遂げている。男性が女性に視線を向けるとき、ほとんど抗いがたく体の凹凸やら顔の美醜をチェックするように、男性が男性に視線を向けるときには、服装や筋肉の付き方を確認するのだ。それは、同じ行為であり、差異を含む行為である。
私は、自分が女性に向ける視線を通して、作品で提示される異質/同質な視線を体験する。いや、本作の表現を借りれば、その瞬間私は「なっている」。共感するのではない。性的嗜好が違うのだから、共感などしようもない。そうではなく、そのまなざしの在り様を理解するのだ。私として。
これはまあ、なんとも言えない体験である。もちろん、上記はあくまで断片的な感想でしかなく、本作の他の文学的側面やら哲学的な話も魅力を形作ってはいるのだが、まずはこれを書き留めるところからはじめてみたい、とそう思った次第である。