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『無責任の新体系』(荒木優太)

『オデュッセイア』が英雄オデュッセウスの苦難の旅であるように、本書も個人と責任を巡る一つの旅である。

無責任の体系、分人主義と間人主義、アレントのペルソナと演劇モデル、匿名の思想、レヴィナスの他者論、そしてロールズの正義論と無知のヴェール。

自由闊達に、個人と責任にまつわる論考が試される。あるいは、試されてきた歴史が検討される。

まず本書は、この点において面白く読める。専門家ではなく、なんとなくこうした分野に興味を持つ人に、一定のインデックスを差し出してくれる。これは有用であろう。

もちろん、それだけではない。タイトルが示すように、本書では「無責任の新体系」が模索されている。責任が過剰に追及されるこの社会における「無責任の新体系」。

ではその「無責任の新体系」とは何か、ということを考える前に、新がついていない「無責任の体系」について考えておく必要がある。

無責任はよくない。それは確かにそうだろう。しかし、「みんなが悪いんです」(皆に責任があるんです)という表現がされるとき、そこには結局誰も責任を負う主体が存在しない状況が生まれてしまっている。かといって、複雑に絡み合った状況で、「あいつが悪いんだ」と言ってしまえば、その他の人間が無罪放免となってしまう。無責任の領域に逃れることができてしまう。

どちらの道であっても、責任というものが、見えない無責任を生み出している。むしろ、誰かの無責任を担保するために、別の誰かの責任が求められている──かのようでもある。

一体どうすればいいのだろうか。

たしかに誰かが責任を取れば、不毛な「誰が悪いのか」ゲームを終わらせることはできる。それは個人の選択として立派なものであろう。しかしそのことは、ゲームを終わらせるために誰かに責任を取らせておけばいい、という発想も容易に促してしまう。これは大変に危険なことだ。

私たちは、どんな風に責任を負えばいいのだろうか。どのように、責任と無責任を切り分ければいいのだろうか。

本書は、さまざまな角度から、このことについて考えていく。その旅路自体がたいへん面白い。

しかし、本書が一番に面白いのは、そうした考察を経て、ロールズの正義論と無知のヴェールに至り、さらにそれをテキスト論へと接続させている点にある。私はこれを非常にアクロバティックだと感じた。そんな話が飛び出してくるなど、第七章まではまったく予想していなかった。まるで、『青い鳥』風の物語を読んでいたら、旅の果てに「一番大切なのは、一緒に旅していた妹だった」と兄が気がついた、という結末に遭遇したような感覚である。

もちろん、予想していないものが出てくる楽しさだけではない。第八章で語られるテクスト論自体が、非常に興味深い。

著者は楽しく読書することを肯定している。専門家のような、あるいは批評家のような、「かっこいい」読み方ではなく、ただただ内容を楽しむ読書を肯定している。多様な物語に接する中で、無知のヴェールへと接続すること。低俗性・大衆性に宿る無知の方から、正義に必要なヴェールへと近づいていくこと。

なるほど。なんともトリッキーなロジックではないか。しかし、一億人の国民を「啓蒙」するよりは、はるかに現実的ではないだろうか。

勧善懲悪の物語に感動するのは、たしかに単純だし、そこには愚かしさもあるかもしれない。しかし、正義を為す主体と罰される主体に、さまざまなものがはめ込まれたとしたら、どうか。ある作品では強盗は罰され、別の作品では強盗が悪徳な代官を懲らしめる。そのような物語を通り抜けた先に、私たちはどんな罰と救いを強盗に与えるだろうか。

メタ的に「強盗」という概念を整理する必要はない。いや、そうしてはいけない。そうした処理を経て、「すっきり」してしまった後には、結局どちら側かの正義しか残らない。そうではなく、どちらでもありうるんだ、という飲み下しにくい状況を引き受けること。ペルソナとしてルーチンに処理するのではなく、一回一回の事象と相対すること。

そのような心持ちになるためには、それこそ「徹底的に頭の悪い読者」として、あたかもそこに一人の人生があるかのように物語と接する必要があるだろう。それも、たくさんの物語と。

というわけで、なんとも不思議な誤読感のする本だ。自分が読んでいた本が、途中ですり替わってしまったかのようでもある。でも、手にしたかったのは、そういう本であったのかもしれない。

無責任の新体系 ──きみはウーティスと言わねばならない
荒木優太 [晶文社 2019]

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