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『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』(牧野智和)

自己啓発書とは、一体なんなのか。私たちにどのように作用しているのだろうか。

どれだけ自己啓発書に書かれていることが薄っぺらく、現実の在りようとはまったく関係なくても、これだけ本が売れているのだから、そこに何かしらの意義、あるいは役割を見出すことは難しくないだろう。むしろ、無視すべきではないはずだ。

本書では自己啓発書を「自分自身を変えたり、高めたりすることを直接の目的とする書籍群」として包括的に捉え、それらの書籍が私たちにとってどんな意味を持ち、どのように利用されているのかを分析していく。

「日常」の重要性

第一章の冒頭から面白い指摘がある。自己啓発書は、「日常」をどう過ごすかという点が焦点の一つだというのだ。考えてみれば、その通りである。『7つの習慣』はその最たるものであるが、それ以外でも、日々のちょっとした行動の積み重ねや、日常的な行動や意識を変えることで、成功が手に入る、といった言説が大半である。

ある日たまたま買った宝くじが当たって成功者になりました、というのはどう考えても自己啓発ではないが、その宝くじを才能に置き換えても同じである。特異な才能を持つ人が、それを活かして成功を手にするというストーリー(世界観)は、自己啓発では受け入れられない。誰でもが「日常」的にできることをコツコツ積み重ねることで、手にできる成功(あるいは達成)が言及される。

自己啓発書の性質の一端を、次のように表現することはおそらく可能だろう。すなわち、雑事に忙殺され、あるいはつい漫然と過ごしてしまい、目標に近づくことのできない現在の日常生活から脱却することを通して、現在の自分、あるいは他者との差異化を図ろうとするメディアである、と。

まさしくそのような言説が、自己啓発書の一つのテンプレートとして存在している(あるいは自己啓発の母型という言い方もできるだろう)。だからこそ自己啓発は「日常」へと侵入してくる。ある特殊な場面の、一時的な行動だけでは何も変わらないのである。

二つのトラップ

とはいえ、それはまっとうな言説に思える。なにせ、一気に成功を獲得することなどできないのだから。と、割り切れるほど単純なものではない。二つトラップがある。一つは、万能ロジック。もう一つは、価値観の受容だ。

たとえば、「コツコツ続ければ成功を手にできます」という言説はとても耳に心地がよい。しかし、その言説は「いつまでそれを続ければいいのか」については言及しない。だから、成功を手にできない人が反論しても、「まだ十分には続けていないからですよ」と切り返すことができる。これは言ってみれば無敵である。つまり、何も言っていないに等しい。これが一つ目のトラップだ。

さらに、そのような言説では、その「成功」を手にすることが是であると暗黙の内に設定されている。それ以外の「成功」の形や、そもそもそれが本当に「成功」と呼べるかといった疑念は、ほぼ扱われない。つまり、著者が提示する「成功」の定義が、ノウハウと共にインストールされることになる。これはブログの「成功本」を見てみれば、明らかだろう。そのような言説においては、ブログを介して(程度の差はあれ)きらびやかな世界に接続することが、ほとんど絶対的に善であると肯定されている。

それ自身は読み手の解釈の問題ではあるのだが、同種の言説に取り囲まれてしまったとき、その「常識」を疑うのが難しくなる問題は存在しているだろう。そのことは、自己啓発書がテンプレート的な言説で構成されることと絡み合ってより大きな問題を形成しているように感じられる。

たとえば、自己啓発書は多くの人に受け入れられるように書かれている。専門書・技術書などはその分野に興味がある人に限定されて書かれるのだが、大衆向けセルフヘルプメディアは、その定義からして不特定多数への受容が意図されている(販売数を求める雑誌などでも同様だろう)。

しかし、人間とは一人ひとり違っているものだし、人生にも再現性はない。すると、不特定多数に向けて言えることは、最大公約数的なものに限られてしまう。そして、人間について平均的に言えることは非常に数が少ない上に、ワンパターンである。だから、自己啓発書の内容は似たり寄ったりになってくるのだ。これは、メディアの指向性が持つ宿命と言える。そこからはみ出たことを書けば、それはもう大衆向けセルフヘルプメディアではなくなってしまうのだ。

だから、(こういう言い方はなんだが)その手の本を十冊も読めば、誰でも「自己啓発書」的なことは書けるようになる(書き手が多い理由もここにある)。一定の文脈さえ押さえれば、あとはアレンジ(あるいは修辞)の技術へとすり替わるのだ。よって、私たちはそのような言説に取り囲まれることになる。

自己啓発の限界

それだけではない。そのような言説がどのように受容されているのか、という点でも本書は興味深い視点を示す。

自己啓発書というと、ひどくそれに没頭している人が思い浮かびやすいが、むしろ多くの読者はもう少し距離を取った読み方をしているのではないか、と著者は述べる。

盲目的に受け止められるものではなく、自らの現状に即したかたちで、選択的に読まれとりいれられるものでありながらも、何かしら本質的な、真正なことが書いてあるという期待のものに、他に代替するもののない自己確認の日常的参照点として読まれる自己啓発書。

著者はここに両義性を見て取るのだが、私は「選択的」という部分が気になった。本一冊を全体で「受け取る」のではなく、必要だと自分が思える箇所だけをピックアップして読むというのだ(そのような本の読み方を説く読書術本もあった記憶がある)。そのように選択的に本から素材を取り出し、自らの苦悩を中和するために使うという「応急処置」的に自己啓発書は読まれていると言う。リクターマンによる「薄い文化」という概念も紹介されているが、たしかに、そういう在り様が自己啓発書読者には存在しているように感じられる。

ここで著者の意見と、私の意見が分かれる。著者は、そうした応急処置に一定の意義を認める。そもそもそうした応急処置が可能なメディア(言説)自体が稀であり、また、前例的な規範が機能しなくなり、人がどう生きればいいのかが不安定な現代にあっては、とりあえずであっても「こう生きましょう」と提示してくれるメディアの存在は人々にとって有用ではないか、という話だ(かなり簡潔にまとめたので、詳しくは本書p.44を)。

たしかに無限のがけ底に向かって転落しているときには、たとえなんであれピックとなるようなものを壁に突き刺すことは大切だろう。それによって、一時的な安定感、安心感が得られる。もしそれが、精神的な意味でのサプリメントであるならば、そういう利用のされ方は好ましいように思える。しかし、ピックで得られるのは一時的な安心感でしかない。それが緩んできたらまあ別のピックが必要となる。それを繰り返して、少しずつ上に昇っていく・・・・・・という行為が肯定できるのは、昇り続ければいつかは地面に出られるときである。どれだけ昇っても、地面が見えてこないような社会であれば、私たちはある種の転落感に適応できた方が良い。

何が言いたいのかと言えば、ブラック企業で体と心を酷使している人にとって必要なのは、一時的な精神的慰めではなく、実際的・現実的な行動である、ということだ。まさにそれは自己啓発書では絶対に扱われない、会社を辞めて必要とあれば労働基準監督署に駆け込む、という行為である。自己啓発書は(定義的に)自己啓発書的言論世界からはみ出ることはないので、いくら選択的に自己啓発書を読んでいても、根本的な問題はなにも解決しない(自己啓発書が扱うのは常に自己であるので、環境に根本的な問題があるときは何の役にも立たないばかりか人をそこに閉じ込めてしまう害がある)。

啓発中毒

あるいは別の話もしよう。頭痛が起きたときに、応急処置的に頭痛薬を飲む人は多い。しかしそれが常用され、先回りや予防のためにほとんど毎日摂取されるようになると、薬物乱用頭痛というのが生じる。頭痛発生の閾値が下がってしまうのだ。一種の中毒症状と言ってもいい。現実を忘れるためのアルコールや、モルヒネ(に似たもの)でも同じようなことは起こるだろう。では、精神安定のための自己啓発書ではどうだろうか。常用することで、中毒症状に似たものは発生しないと言い切れるだろうか。

簡単に言えば、不安解消として自己啓発書が繰り返し読まれるとき、その人は不安に強くなるのではなく、むしろ弱くなっているかもしれない。それが一時的・限定的な混乱時期をくぐり抜けるためであれば、よいだろう。しかし、むしろ不安が常態化しているような時代であれば、その人にとって中長期的に必要とするものとは逆のものを提供してしまっているかもしれない。

つまり、応急処置が本当に応急処置なのであればよいのだが、繰り返される応急処置は麻酔を打ち続けるのと同じになるのではないか、という懸念である。この意味で、私は繰り返される応急処置的な情報摂取を好ましいとは感じない。

加えて言えば、薄い文化では、メディアの言説は選択的に取り込まれるという。選択主はもちろん読者である。これはある種の価値観を強化する働きを持つのは『フィルターバブル』の指摘を待つまでもない。よって、応急処置は、一度底に嵌り込むと、緩やかであれ繰り返されることが想定できる。選択主が選択しないものは、どうあっても取り込まれない、ということなのだ。

逆に言えば、選択的である以上、フィルターバブルに嵌り込まないこともありえる。それは単に自己啓発的メディアを絶対視しないだけではなく、完璧に相対化できているときである。つまり、他のメディアも一緒に摂取しているときである。いくら、読者が自己啓発メディアを選択的に読もうとも、それ以外のメディアに接していないのならば、yes/noの選択肢しか選べない。その意味で、幅広い読書は有用でもあるし、また書店の自己啓発書コーナーに自己啓発書以外の文脈を提示する本が置いてあることも重要である。

が、後者を臨むのはなかなか難しいだろう。

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▼目次データ:

はじめに
第一章 ハビトゥスとしての自己啓発
第二章 「ヘゲモニックな男性性」とそのハビトゥス――男性向け「年代本」の分析
第三章 「自分らしさ」という至上原理――女性向け「年代本」の分析
第四章 「今ここ」の節合可能性――手帳術本の三五年史
第五章 私的空間の節合可能性――家事の自己啓発的転回と私的空間の聖化
終章 自己啓発の時代のゆくえ
あとがき
参考文献
索 引

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ
牧野智和 [勁草書房 2015]

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