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結城浩の「コミュニケーションの心がけ」Vol.221より 〜本を書くのは難しい〜

結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2016年6月21日 Vol.221より。

本を書くのは、何が難しいか。その問いに結城先生は次のように答える。

 本は長い文章でできているから、
 だから書くのが難しい。

シンプルだ。そして、ごもっともでもある。

いやいやちょっと待てよ、とあなたは思うかもしれない。いくらなんでもそれは単純すぎないか、と。でも、実際にそうなのだ。規模の大きさは、特別な問題を引き起こす。

従業員が自分しかいない会社のマネジメントと、従業員が1万5000人いる会社のマネジメントは同じだろうか。言い換えれば、セルフ・マネジメントでやっていることを単に拡大すれば会社がうまく回るようになるだろうか。あるいは、時速3kmで20m走ることと、42.195km走ることは同じだろうか。

同じなはずがない。そこには特別な__つまり、その規模において機能する__何かが求められる。

本も同じだ。


ときどき、手に取った本を見て「あっ、これは本ではないな」と思うことがある。本でないとしたら何かといえば、「文章の寄せ集め」だ。逆に言えば、私にとっての本は文章の寄せ集めではない。

結城先生も書かれているが、本には一貫性があり、全体性がある。なんだったら、流れもある。単に10万字分のマス目を言葉で埋めたものではない。だから、書くのが難しい。書き上げるのが難しい。

短い文章ならば、それこそ140字であるならば、簡単だ。一貫性も全体性も意識しなくて言い。言葉を発するという行為自体がそれを含んでいるからだ。そういうツイートを800回も行えば、112000字に到達する。でも、これは本ではない。

たった3ツイートでも、5ツイートでもいい。それを「連ツイ」の形で流そうとすると、途端に難しさが出てくる。3人ぐらい社員を雇った会社のようなものであろう。意識的な制御が求められるのだ。そしてそれは、規模が拡大していくにつれ、どんどんややこしさを増していく。


本は長い文章でできている。

それはつまり、扱える素材が多いということだ。そして、扱える素材が多ければ多いほど、組み合わせの数も増えていく。選択肢がギュギュンと増える。そこで書き手は迷うことになる。どの道を選べばいいのだろうか、と。

面白いことに、文章が少しずつ固まってくると、その選択肢は急激に減少していく。それは本の特性__一貫性、全体性、流れ__に依るものだ。取り得る組み合わせの数が激減し、「これしかない」という形になっていく。僕は本を書いていて、そういう何かがカチリと音を立てる瞬間がすごく好きだ。ゾクゾクする。

もちろん、そうして決まった形が「正しい答え」なのかどうかはわからない。もっとうまく書ける方法はあったかもしれない。でも、そういうことばかりを考えていては、いつまでたっても脱稿はできない。ともかく、自分なりの最善を尽くしたんだ、という感触を信じてやっていくしかない。


本は長い文章でできている。

だから執筆に時間がかかる。「自分」という存在が、長期的にコミットすることになる。今日と明日の自分はそれほど違わないかもしれない。でも、今日と三ヶ月後の自分は結構違う可能性がある。そのような(基本は同じでも、少し違う)主体が同一のプロジェクトに関わることになる。

それが本の面白さであり、難しさでもある。

難しさについては、基本的にセルフ・マネジメントの問題と考えてよいだろう。長期的な行動管理はだいたい難しいものだ。では、面白さは? それは「ひとりの作品ではない」という点にある。たぶん、厚みみたいなものはそういう「多人数の自分」の視点から生まれてくるのではないかと思う。ゆらぎと呼んでもよいだろう。


本は長い文章でできている。

そして人の認知が操作できる概念の量は少ない。だから、長い文章は脳内だけでは操作できない。見通せないし、組み立てられない。これはもう脳の仕組みなのだからどうしようもない。

執筆前に頭の中で描く「本」の形はだいたい的外れである。細部だけでなく、全体の構想すらそうだ。そんなよくわからないものに立ち向かい、少しずつ形を与えていくのが執筆である。これはまあ、それなりにしんどい。

でも、であるがゆえに、かけがえのないものが生まれたりもする。


少なくとも、それがあまりにも簡単なものならば、仕事にはならないだろう。

それは単に対価を支払ってもらえないということもあるし、飽きて続けられないということもある。

本を書くのは難しい。だから、人は本を書くのである。たぶん。

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