幸福を論じる本は多いが、嫉妬を論じる本は珍しい。嫉妬が扱われるにしても、「人間」的ではないと切り捨てられることが大半だろう。自己啓発的な言説では特にその傾向が強い。嫉妬は身を焼き尽くす。だからそんなものは持つべきではない、と。
たしかにその通りだ。しかし、そう簡単に嫉妬から距離を置けるものなのだろうか。もしそれができるなら実践すればいい。しかし、実践できないとしたら? そのときに必要なのは嫉妬とはどういうものなのかをじっくり考えることだろう。
目次は以下の通り。
第1章 嫉妬とは何か
第2章 嫉妬の思想史
第3章 誇示、あるいは自慢することについて
第4章 嫉妬・正義・コミュニズム
第5章 嫉妬と民主主義
第1章、第2章では「嫉妬」とは何か、嫉妬はどう語られてきたのかが確認される。主に西洋の思想だが、いくつか日本の思想も引かれている。
第3章では関連する概念として「誇示」と「自慢」が検討される。たしかに何かを自慢することと、誰かを嫉妬することには影響的な関係がある。この資本主義(というよりも消費至上主義)の社会においては、そうした感情を駆動することが一番強い消費のエンジンであることはほとんど間違いない。隣の芝生が青いことを知覚させれば、青い芝生がバンバン売れるというわけだ。
面白いのは、著者が「常識を転覆するような自慢」を一つの処方箋として提示している点だ。
こうした誇示のゲームを抜け出す方途があるだろうか。もしかするとそれは、「ぼくはチビでデブだけど、それが自慢なんだ」(『くまのプーさん』)といった、常識を転覆するような自慢ではないだろうか。他人との比較の彼方で、自らの特異性をありのままに肯定する、そうした純粋な誇示だけが、資本が押し付けるゲームからつかの間の離脱を可能にしてくれるかもしれない──たとえそれもまた新しい差別化の理論にまきとられてしまうにしても。
すでに存在している基準にそって自慢するのではなく、むしろ「えっ、そんなこと自慢するの!?」と驚かれるような自慢をすること。私は、作品批評の価値とはまさにそこにあると考える。その作品についてまだ誰も見つけていなかった価値を取り出すこと、それはそのまま新しい評価軸を作り上げることだと言える。
さて、本書の白眉とも言えるのが第4章、第5章における民主主義社会と嫉妬の関係である。ここは読んでいて非常に刺激を受けた。ロールズの正義の構想において嫉妬の存在がいかに「邪魔」であるのかが確認されるのだが、ロールズはうまくそれを処理できていないことが示される。むしろ、嫉妬を完全に無くそうとする制度設計はさらなる歪みをもたらすだろう、と。というよりも、民主主義と嫉妬は切っても切り離せない関係にあるのではないか、と。
であればどうするか。嫉妬が存在することを、消そうと思っても消しきれないことを前提として考えを進めていくしかない。つまり、嫉妬とのつき合い方を考える必要がある。嫉妬を無視するのではなく、嫉妬を受け入れて、うまくやっていく。これは他者論でもあるだろう。
では、どうした方策がありえるのか。それが最後に確認されるのだが、私は哲学者の三木清の「物を作れ」というアドバイスが響いた。もちろんそれは私が「物を作る」人間だからだが、運用を間違えなければなかなか効果的な方策だと感じられる。万能とは言えないにしても(そもそもそんなものは存在しないだろう)、楽しんで取り組めるよい方策ではある。
が、著者のラディカルな提案はもっと面白い。人が比較することを止められず、比較によってこそ嫉妬が生じるならば、もっと徹底的に比較せよ、というのだ。部分的な比較が嫉妬を増長させるとしたら、それをより徹底させればどうなるか。以下の一文が染みる。
ねたましく思う優れた隣人をよくよく観察すると、思いもしなかった一面が見えてくるものだ。
単に隣人の庭を覗くのではない。それをよくよく観察するのだ。そうすれば世界はまた違って見えてくる。
ここで先ほどの「常識を転覆するような自慢」を思い出そう。ある人が、既存の価値観に沿った自慢ではなく、常識を転覆するような自慢をする。「うちの芝、メチャクチャ早い速度で成長するので、芝刈りをするのがすごく楽しいんです」。すると、それまでになかった比較項目が増える。そうした自慢が世界中に溢れれば、私たちはさまざまなものが観察できるようになり、思いもしなかった一面がたくさん見えてくる。
それでも嫉妬は生まれるかもしれない。でも、そう長く息はしていられないだろう。