エンタメ作品への評価に「難しいことを考えずに楽しめる」というフレーズがある。気晴らしには最適な作品ということだろう。そのフレーズをもじれば、本書は「難しいことを考えながら楽しめる」一冊である。
著者の体験と、そこから導かれる(あるいはそれが要請する)思索に触れることで、読者自身も「考える」ことへと誘われる。そんなウキウキするような本だ。
とは言え、心躍るような楽しいエピソードばかりではない。むしろ、息がつまるような場面だったり、胃が痛くなるような場面が──ユーモアを交えて──描写される。なぜだろうか。まさしくそれこそが、「難しいこと」を考える契機になるからだ。その営みをここでは「哲学」と呼ぶことにしよう。
私たちは生きている。しかし、ただ生きているわけではない。世界を認識し、他者を把握し、未来を想像しながら生きている。たいていの場合、そこに破綻は生まれない。すべては適切に調和している。しかし、それが破れることがある。認識が崩れ、把握が歪み、想像が及ばない事態に出くわす。
そうしたとき、私たちは「考える」ことを迫られる。目の前に現れた事象を、自分の中で適切に位置づけ直すために、自分の認識を根本的に再構築しなければいけない。そのようなラディカルな営みが「哲学」である。
出てくる答えに「哲学」があるわけではない。破れた地点から、新しい地点に向かって歩みを進めるプロセスこそが「哲学」なのである。その過程は、いくらでも他人の手や肩を借りてもいいが、最後の最後には自分の足で歩まなければならない。なぜなら、その問いは自分自身に向けられたものだからだ。他の誰かに答えてもらうことはできない。
その意味で、極論すれば「哲学」は誰かに教えてもらうことができない。自分の足で、その門をくぐり抜ける必要がある。さまざまな知識や指導は、そのための補助なのだ。
本書は、著者自身がどのように「考えた」のかを、実際の経験を通して語ってくれる。ここまで赤裸々に語っても大丈夫なのかとちょっと心配になるが、しかし抽象的な事柄だけを論じていては、たどり着けない場所があるのだろう。なにせ、すべての人生は個別的であり、個人的であるからだ。
私たちは、自分の人生から抜け出すことはできない。そのような個別性という束縛が、私たちの普遍性である。
その意味で、本書で得られるのは答えでもなく、考え方でもない。もっと根源的な「考える姿勢」だ。『経済ってそういうことだったのか会議』というタイトルの本があるが、それを拝借すれば「考えるってそういうことだったのか日記」とでも呼べるかもしれない。哲学的な思考と日常が交わる場所。そんな雑居的空間が本書では示されている。
というところが、本書の紹介の門前である。ここら辺でピンと来た人はさっそく購入して自分でこの本の門をくぐってもらえればいい。まったくピンと来なかった人はブラウザバックでOKだ。そうでなく、もうちょっとこの本の門前をうろちょろしたい人は、私としばらく付き合っていただこう。
門前とは何か
本書は「哲学の門前」を謳っている。面白い視点だ。
たしかに哲学の入門書はたくさんある。戸田山和久の『哲学入門』は、彼特有の軽やかな文体で私たちを哲学の世界に誘ってくれるし、飲茶の『史上最強の哲学入門』はエンタメの構えで哲学者たちを紹介してくれる。最近では、千葉雅也の『現代思想入門』がこれまでにない切れ味で、哲学への導入を試みている。どれも有益で、有用で、楽しい本だ。
しかし、本書が提示する疑問は残る。「どうなったら、哲学に入門したと言えるのだろうか?」
そもそも「哲学とは何なのか?」という問い自体が哲学的である。実際に、それを考えている哲学者も多い。哲学が一体何なのかがわかっていなければ、哲学に入門できたかどうかも当然曖昧になってしまうだろう。
そこで著者は「門前でいいのだ」と示す。入門──門に入ることを──をせずに、その前をうろちょろするだけでも何かしら意義があるのではないかと説く。
これは別段「酸っぱいブドウ」ではない。小難しいことを拒絶して、それを正当化するために対象を貶める行為とは違う。そうではなく、「適切な門をくぐらなければ、哲学はできないのではないか」という考えに疑問を提示しているのである。
たしかに学問として専門性の高い哲学はある、一方で、専門家になろうというのではない一市民にも、哲学は開かれている。あるいは、哲学の契機が訪れることがある。その現実を本書は真正面から受け止める。
よって、本書は哲学史でもなければ、特定の哲学者の研究書でもない。もちろん、哲学の入門書でもない。ただし、本書の隅々からは哲学的な思考が感じられる。「哲学的に考える」というのではなく、「哲学を使って考える」や「哲学と共に考える」といった趣に満ちているのだ。
私は哲学に関しては門外漢なので(そもそも、何も専門がないのかもしれない)、本書が「哲学」にカテゴライズできるかは断言できないが、それでも本書はこの現代を生きる市民と、哲学との結びつきを強めてくれる一冊ではあると思う。
著者の手つき
ぜんぜん別の話をしよう。
本書では、著者の指針・姿勢が開示されている。たとえば、以下のような文がそれだ。
君と世界の戦いでは、世界に支援せよ。なぜなら、君は悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法がないのだから。
これがどんな文脈に位置づけられているのかは本書を直接参照していただきたい。ともかく、私はこの文を読んでだいぶしっくりきたことがある。なるほど、これが著者の手つきなのだ、と。
たとえば、たいへん面白い本と私の中で話題の『理不尽な進化』だが、本書では一般的に誤用されている「進化」という言葉遣いを単に間違っていると退けるのではなく、そうして使ってしまう心理にスポットライトを当てている。さらに、王道まっしぐらのリチャード・ドーキンスその人ではなく、論敵でありしかもその論争の敗者とされているスティーヴン・ジェイ・グールドを取り上げる。
なぜだろうか。主流ではなく、傍流。そこに目を向ける視点が、単に逆張りを狙ったものでないことは、まなざしの中にある優しさ感じれば一目瞭然だ。
しかしこれが、「世界を支援」しているのだとしたら、すべてが腑に落ちる。たしかに著者は世界を支援している。切り捨てられるはずのものたちを拾い上げ、非常に手厚い看護をほどこしている。
私はその本のその手つきに感銘を受けたのだが、それは一冊限りのマジックではなく、著者を貫く一つの大きな姿勢であったというわけだ。
それが腑に落ちただけでも、この一冊は十分な収穫だったと言える。
相棒を求める
もう一つ、別の話をする。本書に拍手喝采を送りたくなった箇所について。
本書の後半では、著者の相棒である山本貴光氏の話が登場する。二人のお話はいつ聞いても楽しいものなので、こうやって内輪話が聞けるのは一ファンとしてすごく嬉しい。
が、それはそれとして、こんな言葉が出てくる。
知的課題を遂行する際には反響板が必要だ。
400回くらい激しくヘッドバンキングしたくなる。「人は孤独に研究するより仲間とともに研究したほうがよい」。まさにその通りだ。この言葉は著者の恩師である赤木昭夫氏によるものらしいが、著者と山本氏はまさにそれを実践していると言えるだろう。
なんというか、人は天才をロールモデルとし、孤独であろうとしすぎる。あるいは、こうして「考える」ことが好きな人は、だいたい他人を煩わしく感じる傾向が強いのかもしれない。しかし、人が自分の頭だけで考えられることには限界がある。あるいは、盲点がある。
『知っているつもり』などの著作でも明らかにされているが、私たちは「外部」を使って考える。あるいは、脳と外部は思考活動において本来ワンセットなのだという言い方もできる。私は『すべてはノートからはじまる』でその外部を「ノート」と表現したが、もちろん他者もまた外部であることは間違いない。そうした外部を使うことで、私たちの脳はよりよく働くことができる。
『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』でも、天才と呼ばれる人たちが、実は周りの人たちとの共同関係にあったことが示されているが、私たちはついついそのことを見落としてしまう。「擬人化」が大好きな私たちの脳は、ある関係から生まれる成果を、単独の人間に背負わせてしまいがちなのだ。
もちろん、相手が誰でもいいわけではない。相性の良さは間違いなくある。「反響板」とは、反響するから機能するのであって、音を完璧に吸収するクッションや爆音をかき鳴らすスピーカーの前では同じようにはいかないだろう。
たとえそうであっても、いや、そうであるからこそ、私たちは孤独に閉じこもることを避ける努力をしなければいけない。努力という言葉が強すぎるなら、そういう契機を見逃さず、エイヤと飛び込む気概を持っておく必要がある。
主幹まみれな主張をただ述べればいい、と思っているならば、もちろん他者など必要ない。むしろ邪魔であろう。しかし、そうでないのならば、私たちは気の合う相手と意見を交わらせることをした方がいい。その方が、ずっと楽しいはずである。
さいごに
なんだか長くなってしまった上に、話が散漫になってしまったが、いろいろ語りたりたくなる魅力を持った本であることは伝わったかもしれない。とりあえず、「難しいことを考えながら楽しんだ」結果を文章にしてみた次第だ。
たぶん、世界中の哲学者は過去の哲学を引き受けながらも、それぞれ自分の哲学を構築しているのだろう。であれば、通俗哲学者たる私たちもまた、自分の人生において自分の哲学を構築することができるのかもしれない。外側にいながらも、内側にいること。そういう不思議な場所が門前なのだろう。
ちなみに本書を読み終えた後、「自分は、Type-吉川かType-山本か」をずっと考えていたのだが、自分の広げる風呂敷の大きさを考えれば、Type-山本と言わざるを得ないなと結論づけた。もちろん、深みは及びもつかないが。