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『学びの呼吸 ~世界のエリートに共通する学習の型』

編集者さまより献本いただきました。ありがとうございます。


さて、「学びの呼吸」とは何だろうか。簡単に言えば、学習や研究に関する統合的な「見立て」である。

「学び」も呼吸と同じようなものです。すなわち、知識を空気に例えるなら、知識を獲得すること(インプット)、そして、得た知識を外に出すこと(アウトプット)が、いつもワンセットでなければならないのです。

たとえば、「勉強」という言葉で連想される学習は、おおむね「丸暗記」を意味し、インプットだけに注意を向けてしまいがちだが、息を吸い続けるだけでは生命活動が成り立たないように、インプットとアウトプットをワンセットにして捉えることで、既存の勉強観をシフトさせようというのがこの「学びの呼吸」という見立ての意図であろう。

大ヒットしている『独学大全』もまさにそのような勉強観のシフトを提示するものであり、そもそも義務教育や高等教育の内部であっても、「探究」が一つのキーワードになりつつある。教科書や教師が提示した知識を丸暗記して、それでテストをパスしたら、次の日からはもう頭の中からはデリートされている、という勉強観からの離脱はさまざまな分野で生じていると見て良いだろう。

そもそも、貴重な青春の時間と税金が、「テストが終わったらもう忘れている」という知識の獲得(というか、知識は獲得されていないわけだが)のために使われているのだとしたらこれは極めてもったいないものだし、もし「生涯学習」という言葉がそのような文脈で理解されているとしたら、もやはおぞましいの領域に足を踏み入れてしまうことになるだろう。

だからこそ、私たちは新しい勉強観を獲得する必要がある。「学びの呼吸」はそのシフトを目指す見立てなわけだ。

概要

目次は以下の通り。

序章 世界に通用する学びとは
1章 観察する
2章 傾聴する
3章 思考する
4章 模倣する
5章 記述する
6章 意見する
7章 質問する
8章 批判する
9章 パフォーマンスする

序章でまず「学びの呼吸」について論じられ、そこに9つのエッセンスが含まれることが提示される。続く章で、そのエッセンスが一つひとつ具体的なメソッドともに紹介されていく。その意味で、具体的な一つの「勉強法」というよりは、包括的な「学び」のエッセンスとそのノウハウが摂取できる本だと言えるだろう。

もちろん、ここで天の邪鬼な私のまなざしは、この本そのものに向けられる。つまり、本に書かれた知識を自分のものとすることも「学び」ではあろう。だとすれば『学びの呼吸』に対する学びの呼吸も必要であろう。言い換えれば、この本はただ頭から終わりまで読んだらそれでOKとはならない。むしろ、この本からの学びは、この本の内容を呼吸していく中で、実践的に確かめられるべきだろう。

しかし、そんなことは可能なのだろうか。もちろん可能である。たとえば、第一章「観察する」では、記述・解釈・並置・比較という「比較のプロセス」が紹介されているが、それをこの本自身に適用すればいい。それには内側にやるやり方と、外側にやるやり方がある。内側であれば、9つの章について比較することになるし、外側であれば『独学大全』や『Learn Better』と比較すればいい。

面倒だと思われただろうか。そう、深い学びとは必ず面倒さを伴うものである。それに比べれば、教科書を与えられて「ここから試験問題が出ます」と言われた方がはるかに楽であろう。しかし、その楽さに安住する限り、深いレベルで学べることはない。というか、一度やってみれば100の言葉を並べるよりも納得できるだろう。そのような比較を越えた後だと、それまでの自分の理解がいかに浅いものだったのかを痛感するはずだ。

もちろん、他の章でも同じことが言える。本書が示すように、インプットだけでは「学び」としてはきわめて浅い(つまり表面的な)理解に留まるが、アウトプット(手を動かし、頭を動かし、何かを作り出すこと)とセットになるとき、私たちはその対象により深く潜り込み、それでいて高い視点から眺められるようになる。

そして、その行為全体がすこぶる楽しいのである。進化的な影響なのかもしれないが、私たちは何かをわかったとき、あるいはこれまでつながっていなかったものにつながりを見出したとき、独特の快を感じるようになっている。そこで生じる快は、他の快と優劣はつけられないにしても、他では代替できない存在感を持って私たちに迫ってくる。

「学び」について大切なのは、おそらくはそこだろう。「学ぶ」ことには苦労も手間も伴うが、しかしそれは苦行の試練ではないし、不快さをもたらすものでもない。自分のそれまでの理解を塗り替えていくような、一種自己破壊的な、それでいて創造的な(これは結局同じコインの裏表なのだろう)楽しさが伴っている。

本書も冒頭で「幸福感」という言葉を用いているが、勉強の先に何かしらの効能やメリットが待っているにせよ、むしろそれは副次的な(つまりおまけのような)ものでしかない。何かを学んでいくことは、それ自身に楽しさがある。その楽しさは、ややねじれていてイノセントなものではないかもしれないが、だからこそ私という存在と世界の関係を組み替えていくような力を持っている。

もしこの話を信じられないなら、直近で読んだ本について自分なりの言葉で感想なり批評を書いてみればいい。苦労と共に、たくさんの発見を自分の人生にもたらせることは請け負ってもいい。

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