「死んでしまいたい」 過労自殺の電通社員、悲痛な叫び:朝日新聞デジタル
悲惨なニュースだ。もちろん、亡くなられた高橋さんの気持ちを思うと悲惨という言葉では足りないのだが、それとは別に日本の労働環境が何一つ変わっていないばかりか、むしろ悪化していることに悲惨さを感じてしまう。
長らくコンビニ業界で働いていたので、劣悪な労働環境については関心を持っていた。日本のコンビニ業界は「劣悪な労働環境」の代表格みたいなものであり(特にオーナーの立場が酷い)、そこに居酒屋やファミレス、ファストフードなどのチェーン飲食店が続いていく。そこで発生している「名ばかり管理職」といった問題は随分前から提起されてきたし、それなりに改善もあったのだろうが、現状を見る限りにおいては、問題は縮小したのではなく、むしろ社会全体に広がっている印象を受ける。
その内実については多面的な分析が必要だろうから、ここで立ち入ることはしない。気になるのは、個人が持つ選択肢、という点である。
私は、家入一真さんという人があまり好きではないのだが、それでも彼が言う「逃げろ!」というメッセージには共感を覚える。
逃げることは恥ずかしいことでも何でもない。一体誰がライオンに追いかけられているウサギを笑うだろうか。逃げることは立派な生存戦略なのだ。しかし、それが難しいからこそ、こういうことが起きてしまう。
以前R-styleで「がんばる・コマンド」という記事を書いたが、元々の選択肢として、「逃げる」というコマンドを持っていない場合もあるし、精神的に追い詰められて「頑張る」以外のコマンドが一時的に利用不能になっている場合もある。本当にヤバくなってしまったら、ヤバいという状況認識すら発生しなくなる点は忘れてはいけないだろう。そのあたりは、心理学周辺の知見を見聞きすればよくわかる。人間は常に合理的な選択ができる主体ではないのだ。だからこそ、早め早めに手を打つことが大切になってくる。
もちろん、劣悪な労働環境がなくなることが一番だろう。しかし、日本の景気がどん詰まりになっている状況では、どうしたってこのような状況は発生してしまう。だからこそ、やむなしであっても自衛が必要だし、当人の判断力が落ちることを考慮すれば、それがパターナリズムだと言われようとも、ある種の強制力(ただし国家的ではない)は必要になるだろう。
「逃げる」ことは、ようするに選択肢を持つことだ。
そしてその選択肢は、さまざまな知識や情報と、人と人のネットワークによって生まれてくる。たぶんそれが≪僕らの生存戦略≫のもっとも基本的なスタンスになるだろう。