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わかってもらう技術

誰かに何かを伝えたい。

とても日常的な感情でしょう。そして切実な問題でもあります。

誰かに何かを伝えたい。そう望んだとき、一つ忘れてはいけないことがあります。それは、「わかる」は相手に属する、ということです。

あなたにできることは、「適切に伝える」ことだけであり、「わかる」ことは伝えられた方が行わなければいけません。言い換えれば、わかってもらおうと努力することはできても、最終的にわかるかどうかは相手依存なのです。

それを前提にできれば、「伝える」行為において、相手の存在を絶対に無視できないことがわかります。


さて、そもそも「わかる」とは何でしょうか。

山鳥重氏の『「わかる」とはどういうことか』では、さまざまなタイプの「わかる」が紹介されています。本書を読み進めていくと、人の脳がすっきりした感覚を得る__ユーリカ!__にもいろいろなタイプがあることが「わかる」でしょう。たとえば、全体像がわかる、筋が通るとわかる、空間関係がわかる、といったものです。

しかし、その全てがまったく異なった存在というわけでもなく、どうやら共通の土台があるようです。その土台は何かと言えば、「心像」です。

リンゴ

今、上の単語を読んで心の中に浮かんだもの。それが心像です。心像が浮かぶということは、あなたが「リンゴ」が何かをわかっている、ということでもありますし、リンゴを説明できたり、あるいは絵に描いたりできるということでもあります。

この心像が、何かをわかってもらう上での鍵になりそうです。


『「わかる」とはどういうことか』では、心像を二つの種類に分けています。

 心像にはこのように、今・現在自分のまわりに起こっていることを知覚し続けている心像と、その知覚を支えるために動員される、すでに心に溜め込まれている心像の二種類があります。五感に入ってくる心像(区別された対象の心像)と、その心像が何であるかを判断するための心像(心が所有している心像)です。

机の上に丸い赤いものが置いてあるのが「見える」、というのが前者の心像__知覚心像__であり、それはリンゴだと認識する助けになるのが後者の心像__記憶心像__です。

この二つの心像は、私たちの生活において重要な役割を持っています。

もし、知覚心像を構成するための機能が失われてしまえば、眼が機能的に欠損していなくても、私たちは何も「見る」ことができなくなってしまうでしょう。デジカメで言えば、レンズの機能は正常なのに、それを画像として出力する機能が失われているようなものです。

逆に、記憶心象が全て失われてしまえば、「見る」ことはできても、それが何であるかはわからなくなってしまいます。おそらくその人の中では、何もかもがのっぺりとしたフラットな世界が広がることになるのでしょう。

 繰り返しますが、知覚心像はそのままでは意味を持ちません。知覚対象(モノ)の形が作られただけです。形は出来ましたが、その性質はわかりません。その働きもわかりません。ほかの対象とどういう関係にあるのかもわかりません。
 知覚心像が意味を持つには、記憶心像という裏付けが必要です。

つまり、何か言葉を発して、誰かの耳に入れても、それだけならば知覚心像だけが生成されるに留まるということです。それはまだ意味を持たないのです。


何かを説明する上で、頻繁に利用されるのが「たとえる」というテクニックでしょう。私もよく使います。

「たとえ」は、たとえである以上、表現したいものそのものではありません。「AはBと似ている」という表現は、AはBと近しいことも表現しつつ、AとBはイコールではないことも意味しています。「たとえ」はたいへん便利な方法なのですが、「A=B」と理解されてしまうと、正確には伝え切れていないことになります。

「たとえ」には、そうした誤解を残す余地があるわけですが、それでもその便利さ故に頻繁に利用されています。

なぜ「たとえ」が有効なのか。それは、心像を考慮すれば、容易に理解できます。

すでに相手の心にある心像を利用して、新しいものを伝えること。それが「たとえ」の働きです。すでに蓄えられている心像であれば、その人が操作可能です。それを土台にして、自分が伝えたいものごとの心像を伝えるわけです。

まったく新しいものは、どこにも手がかりがありません。その情報をどこに配置していいのか決められないのです。それが「わからない」という状況でもあります。しかし、既存の心像をベースにして、「ここは似ている」「ここは違う」と伝えれば、ポジショニングが明確になります。

たとえば、[y= x]のグラフがイメージできる人は、[y = – x]のグラフについてもごく簡単な心像操作で思い浮かべることができるでしょう。いちいち一つひとつの点の関係を確認しなくても、[y = x]と対称である右肩下がりのグラフがイメージをすれば済みます。

柔道では、相手の力を利用して重い相手を投げ飛ばす、なんてことが言われますが、「たとえ」もそれに近いものがあるかもしれません。


結城浩氏の『数学文章作法 基礎編』では、一冊を通して「読者のことを考える」ことが伝えられています。

これも、心像を考慮すれば、当然と言えるでしょう。相手がどのような心像を持っているのか。それがわからなければ、適切な表現ができません。「たとえ」ひとつとってみても、読者によっては効果があったり、なかったりするものです。

先ほど私は、デジカメのたとえを持ち出しました。もちろんこれは、2010年代の現代人(それもある程度の大人)が読むことを想定しているからこそ持ち出したたとえです。デジカメを触ったことがない人間であれば、どれだけそれが近しいたとえであっても、表現としては機能しません。

たとえばこの文章を鎌倉時代の人が読んだら、「デジカメ」の心像など操作しえないでしょう。ようするにチンプンカンプンということです。それは、知性の高低とは関係がありません。読み手が高名な学者であっても同じことです。その学者がデジカメついての説明を百科事典か何かで学習したとしても、現代人がデジカメのたとえを持ち出されたときに感じる「あぁ、そうか」という感覚は得られないでしょう。

しかし、明治時代など、デジカメはなくても写真機が存在するような時代であれば、写真機の心象を媒介として、デジカメのたとえを理解できるかもしれません。

読み手がどんな心象を持っているのかは、表現を考える上で重要です。あるいは、文章からどのような心象が構築されるのかも、同じように重要なのですが、それはもう少し突っ込んだ文章作法の話になりますので、今回は割愛しましょう。

ともかく、何かを伝える上で、読者のことを考えることは欠かせません。

また、同じ読者であっても、第一章を読み始めたばかりの頃と、第三章まで読み進めたころでは、その心像も変化しているでしょう。セミナーであれば、一日目と二日目で違うはずです。そうした変化を意識しながら進めていくことも大切でしょう。


リー・ラフィーヴィーの『わかりやすく説明する練習をしよう。』では、心像を連想させるような次の文章が出てきます。

 「読者の目に浮かぶように書く」──説明にとって、これ以上の成果は望むべくもないだろう。

逆から言えば、読者の目に浮かばないようなものを使ってしまうと、説明は失敗ということです。上級者が行う、初心者向けの説明が失敗する原因はここにあります。上級者の視点で説明しても、初心者にはその心像がないのでさっぱりなことが大半なのです。

「読者の目に浮かぶように書く」は、短いフレーズですが説明文を書くときに心に留めておきましょう。たぶん小説を書くときにだって有効です。

ちなみに本書では、初心者向けの説明を「背景」から始めることを提案しています。

 背景が肝心なのだ。いくら有益で、実行可能で、知識が得られるアイデアだとしても、背景がわからなければ制約を受ける
 土台やほかのアイデアとの関連性がなければ、アイデアは孤立し、結果としてその可能性も狭められる。

「アイデアが孤立する」とは、心象的にリンクが発生しない、ということでしょう。シンプルに言えば、「それが何なのかわかっていない」ということです。

そのアイデアがどのぐらい効果的なのかは、そのアイデアがどこに位置づけられるのかを通してしか理解できません。ニュースでも、「〜〜〜の新技術が開発された」と解説されただけでは「ふ〜ん」に留まりますが、「これによって、タバコによる肺がんのリスクが20%抑えられることが期待される」と付け加えられれば、「ほ〜」となるでしょう。

情報を伝達するためには、それがどういう時に役立つか、どんな時に使われるのかを合わせて伝えるのが効果的です。それは、伝えられる情報は新しくても、「どんな時に」は心象内に存在しているからです。それを土台にすれば、新しい情報も受け入れられます。

もちろん、「恒星間超時空航空中に、24世紀からやってきた異星人と遭遇したときに」というのは、あまり役には立たないでしょう。いついかなるときでも、「どんな時に」が役立つわけではなく、それが説明を受ける人の心象に存在しているかが鍵になります。


フレーズでまとめるならば、

「相手の心像に働きかけること」

これが肝要です。

どんなことを思い浮かべるのか、どんなことを思い浮かべられるのか、どんなことは思い浮かべられないのか。

そうしたことを考え抜いた先に、うまい表現は眠っているのでしょう。

「わかる」とはどういうことか ――認識の脳科学 (ちくま新書)
山鳥重[筑摩書房 2002]

数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫)
結城浩[筑摩書房 2013]

わかりやすく説明する練習をしよう。 伝え方を鍛える コミュニケーションを深める
リー・ラフィーヴァー[2013 講談社]

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