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『知的生活の設計』(堀正岳)

帯には「豊かな人生は「設計」できる」とある。もちろん、タイトルからわかる通り、その豊かさとは経済的な資産を意味するものではない。そこで含意されているのは、人生の味わいといったものだ。

私たちは、世界を知覚している。環境から情報を受け取り、それによって世界と日々を、つまりは人生を形成している。もし、あなたが同じ情報からより多くのものを受け取れるとしたら? 楽しみや嬉しさや悲しみや希望をたくさん引き出せるとしたら? きっとその人生は豊かであると言えるだろう。

著者は現代的な知的生活を以下のように定義する。

すなわち、知的生活とは、新しい情報との出会いと刺激が単なる消費にとどまらず、新しい知的生産につながっている場合だと考えるのです。

これは面白い定義だ。ハマトンや渡部昇一の「知的生活」よりも、いっそ梅棹忠夫の視点に近い。どういうことだろうか。

梅棹忠夫は、『知的生産の技術』の中で、知的生産を単なる教養とは位置づけなかった。むしろそれを「積極的な社会参加のしかた」として捉えた。これは、社会が情報化に向かって進み始めた段階では、相当な慧眼というかもはや予知に近いのではないか。

インターネットによって、私たち市民はメディアを手にできた。すなわち社会参加のツールを手にできた。単なる仲間内だけの「発表」ではなく、現実的な社会にコミットできる手段を入手したわけだ。

ここに先ほどの知的生活の定義が響いてくる。新しい情報との出会いが、自らの新しい知的生産につながっているとすれば、それはどうなるか。私が生み出したその新しい情報が、別の誰かの知的生産のトリガーを引く。そうなれば、情報は、まるで贈与のように社会を巡っていく。資本主義におけるお金が血液に喩えられるのとまったく同じ意味で、情報がその社会の中を駆け巡っていく。つまり、社会参加なのである。

知的生活が論じられていた頃と違って、現代ではメディアがごくありふれたものになっている。言い換えれば、日常生活に近接している。だとすれば、知的生活においても、発信を何か特別な行為としてではなく、日常のごく一部として捉え、それを社会参加への入り口として位置づけることはそれほど無理はないだろうし、実際的には必要な位置づけであるとも感じる。

梅棹が知的生産を教養という狭い檻から解放したように、著者は現代の知的生活をハイ・インテリジェンス(だと世間的に思われている)活動から解放した。難しい顔をして本を読むことだけが知的生活ではない。漫画を読むことでも、動画を見ることでも、ネットウォッチすることでも、絵を描くことでも、そこにある種の情報との作用があるのならば、それは知的生活であると、きっぱり断言している。とても力強く、勇気がもらえる断言だ。

しかし、ここでタイトルに戻ってみたい。知的生活は、設計できるし、むしろ設計されなければならない。現代ほど、多様な情報に触れられる時代はないだろう。それはそのまま、人間が目的性や志向性を失いやすい時代とも言える。ここにトラップがあるわけだ。

とは言え、一つの目標に向かって邁進しなさい、という話ならあまりにも窮屈だろう。興味のままにフラフラと動き回っても別段構わないはずだ。しかし、ときどきはふと立ち止まり、「自分はどこに向かおうとしているのだろうか」と考えることは、つまり自らの志向性について振り返ってみることは有用だろう。知的生活の階段は、ゆっくりとしか登っていけない。だから、いつだって軌道修正はできる。しかし、それができるのは、自分がどこに向かおうとしているのかを自覚しているときである。

だからこそ、知的生活は設計されねばならない。計画経済的ではなく、いっそ背伸びのような理念の提示によって。

知的生活の設計―――「10年後の自分」を支える83の戦略
堀正岳 [KADOKAWA / 中経出版 2018]

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