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『不道徳な見えざる手』(ジョージ・A・アカロフ, ロバート・J・シラー)

『アニマル・スピリット』の著者らによる新作。行動経済学的な見方を取り込んだ経済学の視点、というところだろうか。

主張は明確である。

「自由主義ってそんなにいいの?」

別の言い方をすればこうだ。市場は必ずカモ釣りをする。

カモとは何か? 我々である。もう少し言うと、我々が持つ心理的・認知的・情報的な弱さのことだ。勝てないとわかっていてもついついパチンコ屋に足を運んでしまう。成功者が持っているからという理由で長財布を買う、一回当たりの支払額が小さく感じるのでリボ払いしてしまう、エトセトラ、エトセトラ。

行動経済学が示すように、このような反応は人間にとって別段特異なものではない。ある程度は普遍的な性質である。そして、その性質が従来の経済学が想定するのとは違った均衡を市場にもたらす、と著者らは言う。それが釣り均衡だ。

自由市場が、参加者に自由な振る舞いを許容し、一方では、人間にはカモとなる性質がある。すると、どうなるか。市場は必ずカモ釣りをする。もちろん、「きちんと」商売する参加者もいるだろう。しかし、参加者が各々自分の利潤を追求できるならば、必ずカモ釣りを行う連中も出てくる。そして、競争原理の観点から言って、一人がそれを始めたら、競争力レベルが似通っている他の参加者もカモ釣りを行わなくては生き残れなくなる。やつらがのうのうとぼろ儲けしているのだ。我々も行わないと。こうして、市場には一定数のカモ釣りが常に存在することになる。

問題にされない程度のステマをしてPVを集めるライターと、きちんとPR表記をしてPVが集まらないライター。どちらに仕事が舞い込むか?

そういうことである。

上記のような、最終消費者が著しく損を被るような出来事が発生したとき、従来の経済学では「市場の失敗」と見なされる。しかるべき機能が発揮されなかったのだ、と。本来自由市場では、各々が自分の利潤を追求することで、あたかも神のみえざる手が働いたかのように、適切なwin-winが実現するのだから、そうならなかったのは、市場がうまく働かない要素が何かあったに違いないと想定されるのだ。著者らの意見は違う。まさにそのようなことが起こりうることが内在されているのが自由市場なのだ。むしろうまく働いた結果として、こうなったのだ、と。

どこかでお米が人気になったとしよう。一時的な品薄が起こり、値段が上がる。そのときはそれだけの金額を出せる人だけが買い、そうでない人は買わないという資源の最適な分配が起こる。やがて生産者が上がった値段に注目して作付けを増やす。米全体の生産量が上がり、値段が下がって、それまで買わなかった人も買うようになる。値段というシグナルが動くことで、商品の生産や流通が制御されている。そうなるように行った主体は一人も存在しないので、あたかもそのような主体がいるかのようだ。これが「神の見えざる手」である。

アダム=スミスの着想は見事なものだし、現実の一側面を鮮やかに切り取ってはいるが、すべてを描写はできていない。米の人気を察知して、買い占めることで、さらに値段をつり上げたりする業者の存在や、そもそも不足していないのにあたかもそうであるかのように思わせてぼったくるブローカーの存在が無視されているのだ。

そして彼らは、作り上げた圧倒的な利益でCMをバンバン打ったり、ロビー活動したりして、自らの地位をさらに固めることもできてしまう。お金を持っている人間が市場のルール設定に関与できてしまう、という点も「自由市場」を考える上では考慮する必要があるだろう。

そもそもして、最終消費者と商品提供者は同じ情報を持ってはいない。情報の非対称性がある。その上、我々は心の中にカモを飼っている。そして、あまたの市場参加者の中には、必ず一定のそのカモを狙って商売する連中が入ってくる。それに門戸を開いているのが「自由市場」なのである。

私たちは市場を讃える。自由市場は平和と自由の産物であり、人々が恐怖におびえていない安定した時代に花開く。でも、ほしいものを与えてくれる開く箱を作ったのと同じ利潤動機が、中毒性の車輪を回し、その特権と引き換えにお金を奪うスロットマシンも創り出した。

つまり、自由にしておけば万事うまくいく、ということはありえない。むしろカモ釣りが好き勝手に自分の商売をしてしまう。その被害はおそらく地震と同じで、大半はちょっとした被害に留まるだろうが、ときに大きく爆発してしまう。そのような事態を宿命的に背負っているのが自由市場なのである。

だからこそ、自由市場は野放しにしてはいけない。一定の規制や監視は必須である。これは当たり前のように聞こえるかもしれないが、「自由」というのが瑕疵のない絶対的な善ではないかもしれない、という視点ではかなりラディカルであるようにも思える。私たち人間(が持ついくつかの性質)は、「どうぞ、自由に」には不向きなのかもしれない。

だからこそ、市場にはルールが必要で、さらに言えば経済学には倫理が必要なのかもしれない。この辺りは、アマルティア・センの『経済学と倫理学』にも呼応するところがありそうだ。

▼目次データ:

まえがき 経済はごまかしに満ちている
序章 みんな操作されてしまう:釣りの経済学
第1部 釣り均衡を考える
第1章 人生至るところ誘惑だらけ
第2章 評判マイニングと金融危機
第2部 あちこちにある釣り
第3章 広告業者、人の弱点を突く方法を発見
第4章 自動車、住宅、クレジットカードをめぐるぼったくり
第5章 政治でも見られる釣り
第6章 食品、医薬品での釣り
第7章 イノベーション:よいもの、悪いもの、醜いもの
第8章 たばこと酒と釣り均衡
第9章 倒産して儲けを得る
第10章 マイケル・ミルケンがジャンクボンドを餌に釣り
第11章 釣りと戦う英雄たち
第3部 自由市場の裏面
結論 自由市場のすばらしい物語を見直そう
あとがき 釣り均衡の重要性

不道徳な見えざる手
ジョージ・A・アカロフ、ロバート・J・シラー 翻訳:山形浩生 [東洋経済新報社 2017]

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