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『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子)

非常に機微のあるタイトルだ。

まず私はこう思った。タイトルの問いを問う前に、「人はなぜ物語を語りたくなるか」を問うべきではないかと。そこでハッと気がついた。このタイトルはその二重性をすでに引き受けているのだ。

一見すると、本書のタイトルである問いは、「人はなぜ物語を読みたくなるのか」と解釈してしまうのだが(そしてそれは正しいのだが)、「人はなぜ物語を語りたくなるか」という解釈も同時に成立する。つまり、物語を語りたくなるベクトルと、読みたくなるベクトルを別個に捉えるのではなく、それらを統合し、包括的に捉えて、人と物語の関係性に焦点を置いたのがこのタイトルであろう。

語り手がいるからこそ、聞き手は存在しえる。しかし、聞き手がいるからこそ語り手ははじめて語り手たりえる。両方の因果は絡み合い、まとわりついている。そして、一人の人間にとっての、「自分の物語」は、聞き手と語り手が同一の生命体の中に宿っている。むしろ、そのような二重性を内包するものを私たちは「意識」と呼んでいるのだろう。だから、私たちにとって物語は、ごく標準的なフォーマットである。意識は常に物語っているのだ。

サヴァン症候群のような場合はわからないが、それを除けば私たちは記憶を断片的なシーンの寄せ集めのようには扱っていない。これまで見聞きしてきた風景が一秒ごとの細切れのように散らばっていて、それをアルバムから一枚抜き出すように何かを思い出すようなことはない。そこには流れがあり、出来事があり、それを知覚する中心点としての「私」がいる。私はそれらを見聞きする主体だとも言えるし、その知覚の中心点として機能するものを便宜的に「私」と呼んでいるだけとも言える(ドーナツの穴のようなものだ)。

もし、私が知覚しているのとほとんど同じ形式であなたが世界を認識しているならば、あなたは物語で世界を認識している。「私」がいて、因果が(それはつまり時間の流れが)あれば、それは一番シンプルな形のナラティブなのである。もちろん、私たちはそれを「物語」だとは認識しない。川を泳ぐ魚が水を認識しないのと同じである。私という意識にとって、物語というフォーマットは当然のものであり、しかもそれ以外にはないものだ。私たちの意識は、物語のバリエーションを乗り換えることはできるかもしれないが、物語以外のフォーマットに乗り換えることはできない。なぜなら別の乗り物に乗った瞬間にそれは、私たちが常日頃働かせている意識とは別ものになるからだ。シンプルな物語フォーマットで処理される情報機構、それこそが「私」という意識を構成するものである。

だから、生きる上で物語は欠かせない。むしろそれは生きることそのものとも言える。

世の中に提出される小説や映画といった「物語」メディアが、私たちにダイレクトに訴えかけてくるのもそのためだ。意識.narファイルを上書きできるのはフィクション.narだけなのである。説明.expでは、(少なくともダイレクトな)アクセスは不可能である。

だからこそ、私たちは悪しき物語に注意を払わなければいけない。それは単に愚劣な物語というのではない。そうであったら、どれほど良かっただろうか。単に忘れてしまえば済むからだ。悪しき物語は、人の意識にダイレクトに作用し、人を深い穴に引きずり込む。人が前向きに生きるための力を根こそぎ奪いさり、空いた穴に憎悪のガソリンをドロドロと流し込む。

そこまで極端なものでなくても、他人に悪意を覚えたり、自分に降りかかった出来事を自責と結びつけたりするのも物語の作用である。意識は物語を捨てることはできないのだから、後はいかに良き物語(よく機能する物語)を持てるかどうかにかかっている。

著者は「あとがき」の中で、以下のように述べる。

人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。というのが本書の主張なのです。

では、そのストーリーはどのように合成されるだろうか。材料となるのは、知覚された情報だろう。もちろん、そこには物語に沿うような加工(バイアス)が行われている。では、設計図はどうだろうか。生み出される物語の設計図を、我々はどこから入手するだろうか。外部の物語である。だからこそ、世界中の神話は似た構造を持っている。人が生きる上で有用な物語の設計図を、それらの神話は提供しているのだ(あるいはそれが生きる上で有用だったからこそ、ミーム的な適者生存を生き延びたとも言える)。

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

私たちは外部から物語の雛形をインプットし、意識.narのテンプレートファイルを修正・追加する。新しい時代を生きる新しい作家が、新しい物語を紡ぐ責務を負っているのも、この点にある。その時代性に応じた、適切に機能する物語を世に提供しなければ、新しい時代を生きる人々は生きづらい。それは娯楽を衣にまとってはいても、娯楽以上のものである。村上春樹が行ったことも、そういったことであるのだろう。もちろんそれは、一人のカリスマに世界が導かれているのとは違う。作家は、敏感にその時代性に呼応した作品を書く。そしてそれが読者にフィードバックされる。そのような一つの系の働きによって、同時代的なナラティブは書き換わっていくのではないだろうか。

その点を考えれば、現代において「わかりやすい」物語が好まれ、複数の解釈を可能とする物語があまり好まれないのは、いささか危なっかしい予感もある。それはつまり、自分の人生がわかりやすい、単一の解釈だけで捉えられるということであり、いろいろな意味がありうること(あるいはなんの意味もないこと)が拒絶されるということである。それくらい生きづらいことはなかなかないのではないだろう。

自分も物語を持ち、他人も別の物語を持つ。そして、その物語はさまざまに解釈でき、それら一つひとつに意味が宿りうる、というメタ的な視点の物語が持てれば、それに合わせて私たちの「生きる」もまた変わってくるだろう。

▼目次データ:

第1章 あなたはだれ?そして、僕はだれ?
第2章 どこまでも、わけが知りたい
第3章 作り話がほんとうらしいってどういうこと?
第4章 「~すべき」は「動物としての人間」の特徴である
第5章 僕たちは「自分がなにを知らないか」を知らない

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)
千野帽子 [筑摩書房 2017]

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