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ロングテールとリトル・ピープル (2)

ロングテールの力学が働く場では、人々は自身のニッチな好みにフィットした小さなグループを見つけ出せる可能性がある。しかしそれは、他のグループへの無関心や拒否感をも生むかもしれない。前回はそんなことを書いた。

今回はその続きである。

ロングテールによって、「大衆市場」が消える、あるいはその力が弱まることは、「大きな物語」の喪失に結びつく可能性があることについて考えてみたい。

「大きな物語」

「大きな物語」とは、たとえば「我が国は1000年以上の歴史を持つ国で、私はその国の国民である」といった言説を支える世界観、あるいはそれを提供するシステムのことだ。そのような世界観があるからこそ、「国民国家」という共同体は維持されうる。

もし世界中の人間が「我々は宇宙船地球号の乗組員である」と考えていたら、軍隊には一人も人が集まらないであろう。突き詰めて言えば、共同体の強度は、そこに所属する人々が、自分のことをどのように記述するかによって決まってしまう。

完璧なるビッグブラザー

この「大きな物語」は、一つの側面から見れば、権力者がその権力機構を維持するために使われる道具である。その強度パラメータをMaxにまで振り切った世界が、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた世界だ。市民の個人的な生活が強権によって剥奪され、「大きな物語」だけが市民生活を支配している。その象徴がビッグブラザーだ。

このビッグブラザーは、市民あるいは理性的主体の尊厳の視点からすると打倒されるべき存在である。言ってみれば、わかりやすい≪敵≫なのだ。

しかし、「大きな物語」は、自身の記述を支えるものであり、言い換えればそれは空気のように目には見えない。その内部にいる限りにおいて、ビッグブラザーの異質さは決して検知されない。検知されないものは打倒される機運も高まらない。二重思考を持つ者だけがそれを可能とする。

しかし、ジョージ・オーウェルは社会の在り方をデフォルメしたのであって、現実の社会はそうなってはいない。ある国の外には別の国が存在し、情報のやりとりは盛んに行われてる。それによって「大きな物語」はある程度相対化されてしまう。

結局のところ、現実を生きる私たちは「大きな物語」を認知し、指摘できる(その事実が、私たちはビッグブラザーの支配下にはない証左である)。つまり、本当の意味でのビッグブラザーは、(まだ今のところは)想像上の獣にすぎない。

歴史の歩みとビッグブラザー

仮にビッグブラザーを「大きな物語」が異常に成長した姿として捉えると、私たちの歴史はビッグブラザーとなり得るものを相対化していく歩みだったと言えるのかもしれない。たとえば、科学によって神は相対化された。健全なジャーナリズムは独裁者の仮面を引きはがす、などなど。

大規模な戦争を可能にした国民国家という大きな物語も、今や機能不全に陥りつつある。インターネットが、そこに大きな貢献をしていることは疑いようがない。マス・メディアからニッチ・メディアへの移行は、まさにこの流れに位置づけられるだろう。

そして、その流れはどんどん強まっている。

ポスト・物語は実現しうるか

「大きな物語」を、支配者の道具だと捉えるならば、この流れは歓迎すべきものとなる。あらゆる「大きな物語」を駆逐した後には、権力機構の支配から逃れた「自由な市民」がその生をまっとうできる社会が実現する──はずである。

しかし、話はそう簡単には進まない。

(つづく)

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