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『「空気」の研究』(山本七平)

おどろくほど現代的な本だ。

1983年刊行らしいが、現代の日本のニュースを眺めてみても、さまざまな物事が「空気」によって決定されていることがわかる。

「空気」には主体がない。さらに理路もない。ある意味でやりたい放題だ。

(前略)そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任はだれも追及できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探求の方法がない。

だから、「空気」によって決まったものは、同じ失敗を繰り返す。なにせ責任の追及もなければ、検証すべき論理もないのだ。同様に、仮に成功しても、そこには再現性はない。すべてが場当たり的に、たまたま処理されていく。

空気は沈黙的でありながら、絶対支配的である。あるいは沈黙的であるがゆえに__つまりパノプティコン的に__支配力を持つ。見えないものの姿はいくらでも大きくなりうる。あるいは、いくらでも個人のおもいをそこに仮託できる。

しかし、空気は刹那的である。空気は持続的ではない。ある日ころっと変わりうる。理路がないのだから当然だ。当然、その空気を共にする人の行動もまたころっと変わりうる。日本の歴史を眺めてみれば、そういうことは頻繁にあったはずだ。そして、そのことに誰も責任を取らないし、なぜそうなったかの説明が探求されることもない。それが空気である。


空気は、絶対性に依る。それを相対化するのが「水」である。

「水を差す」という表現があるが、まさにそれが空気を壊す行為である。

誰が言い出したのかはわからないが、なんとなく○○君と喋らないようにしよう、という雰囲気が10人ぐらいのグループで盛り上がったとしよう。そこで、誰か一人が「それって、かっこ悪いよね」とボソッとつぶやいたとする。一瞬その場は凍りついたように静まり変えるだろう。水を差して、空気を壊したのだ。

(前略)われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば”現実”であって、しとしと降りつづく”現実雨”に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。

相対化することで、空気に水を差すことはできるのだが、そのリスクは非常に高い。現代ではさらに高まっているかもしれない。空気こそがすべてという人にとって、水を差す人間は完全なる攻撃者である。誰だって自分の周りにある空気を破壊しようとする人間が現れたら、それを敵対者と見なすだろう。なにせ、それがなくなれば呼吸できなくなるのだから。

空気が醸成され、さらにそれが加熱しはじめているとき、そこに水を差す人間は、ほとんどソクラテス的に迫害される。あるいはその可能性を持つ。反対意見の内容が問題なのではない。なにせ、「空気」は理路を持たないからだ。

空気が忌み嫌うのは、反対意見があるということを提示するその行為自体である。その存在は空気を相対化してしまい、自身の絶対性を傷つけてしまう。そのような存在は絶対に許容できない。だから、反対意見を述べるものを攻撃し、迫害し、疎外して、黙らせようとする。先ほどぼそっとつぶやいた一人は、きっと「えっ、何だって?」と聞き返されるだろう。問われているのだ。その発言をこの空気でするのか、と。その突きつけられた踏み絵を踏む勇気を持つ人間だけが水を差すことができる。

もう一度言うが、反対意見の内容は関係ないのだ。それが合理的な内容であるかどうかも問われない。空気を相対化し、それが導くであろう結果を邪魔しうることが敵対する理由である。

とまあ、こんなことが2016年の現在まで続いているのだ。だからまあ、これからも続いていくのだろう。致命的なことが起こるまでは。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
山本七平[文藝春秋 1983]

▼目次情報

  • 「空気」の研究
  • 「水=通常性」の研究
  • 日本的根本主義について
  • あとがき

2 thoughts on “『「空気」の研究』(山本七平)

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