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『日本哲学の最前線』(山口尚)

同じ著者の『哲学トレーニングブック』が面白かったので手に取ってみた。見覚えのある、しかし詳しくは知らない現代の日本の哲学者の名前も気になった。

國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳。本書はこの六人の日本人哲学者の動向をまとめている。面白いのは、「はじめに」において掲げられている「J哲学」なる怪しい言葉だ。

この本は「J哲学」という日本哲学の最前線を紹介する。

なんだ「J哲学」って、とあなたは思うかもしれない。少なくとも私は思った。言うまでもなくそれは、J-POPに対応する呼称なのだが、しかしその対応にどんな意義があるのだろうかと考えてみるとうまく答えは出せない。

慌てて追記しておくと、「J哲学」は著者が錬成した概念ではなく、ウィトゲンシュタイン研究者である鬼界彰夫による言葉らしい。ではそこにどんな意味が込められているのかというと、それは「日本的なもの」との距離感なのである。

たとえばJ-POPというジャンルがあるが、そこで展開されている音楽は別段「日本的なもの」を指向してはいない。むしろ、世界で展開されているPOPを、単に日本語で行っているだけだ。たまたまその言語が日本語だっただけであり、その志向性はもっとオープンなものと言える(演歌や歌謡曲と対比してみると良い)。

「J哲学」も同様のコンセプトを持つ。日本で行われる「日本的な哲学」、つまりがっつり土着に寄せた哲学ではなく、かといって海外の「哲学」を翻訳して輸入するだけの哲学でもない、いわばストレートど真ん中の哲学、が日本(語)で行われている。それが「J哲学」という言葉がまなざす対象である。

この「J哲学」という一見軽薄なネーミングが用いられるのは、上記のような区別を導入するためだけではない。むしろ、読み手側の意識にも関わってくる。どういうことか。クラシックや演歌などは、突飛な個性を露出するような演奏は行われない。むしろそれはあるフォーマットからの差異として表現される。しかし、J-POPミュージシャンはどうか。本書の言葉を引けば「J-POPのアーティストは自分の顔を具えた演奏をかなで、自分の表情を持つ歌をうたう」。このアナロジーがJ哲学の担い手にも効いてくるわけだ。ある作法に従順に従うのではなく、独自のやり方と手法で哲学を展開していく。そのような知の営みに積極的に参加している哲学者たちが「J哲学」を担っているわけだ。よって私たちも、J-POPミュージックを楽しむかのようにJ哲学を味わえば良いのだとわかる。

とは言え本書は、そのような独自の仕事を展開する哲学者たちを単に紹介しているわけではない。むしろ著者なりの視点で、上記六人の哲学者のまなざしに通底するものを描こうとしている。それが「不自由」である。このあたりの議論は、本書の中でも特に「おいしい」部分なので実際に読んでいただきたいのだが、現代の日本において哲学者が「不自由」について、それも単に悲観に向かうのではなく、不自由の先にある自由について目を向けている点は実に興味深いといえる。

ある時代以降、個人とその自由こそが至上価値となり、さまざまな解放が行われてきた。そこには素晴らしい達成がいくつもあった。一方で極限される自由の拡大は、さまざまな弊害ももたらしている。自由の重圧とポピュリズムの台頭、能力主義と自己責任論の肥大化、自由にやりとりされすぎるインターネットの危うさ。ここ5年くらいで切実に感じられるようになった問題は、単に自由を賞揚していれば、物事がすべてうまくいくわけではないことを物語っている。

しかし、だったら規制=支配に戻ろうというのでは何の進歩もないし、面白みに至っては皆無である。だからこそ、一度「不自由」に目を向ける必要がある。自由(や自由意志)について改めて考え直す必要がある。私たちが無自覚のうちに縛られているものをまなざし、それらとの付き合い方を一考する必要がある。それが現代の課題であろう。

その意味で本書は単なる哲学者の紹介を超えた、哲学的な課題を提出していると言える。合わせて言えば、著者なりの論考もより切り込んだ形で読んでみたいものである。

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