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『書くための名前のない技術 case 2 Marieさん』(Tak.)

シリーズものは二作目が興味深い。むしろ、二作目からシリーズの調子が初めて明らかになると言っていい。

たとえばドという音があるとして、それだけでは何もわからないが、その次にミと来るのか、それともドと来るのかによって、その調子がわかってくる。それと同じだ。

一作目と二作目を対比させて相違点や共通点を見出し、そこからどんな方向に進んでいくのだろうかと推測して楽しむ。そういう「遊び」が二作目からは生まれるのだ。本シリーズではどうだろうか。

フォーマット自体は一作目と同じである。インタビューがあり、その後分析がある。しかし、その風向きはかなり違っている。その違いは、著者とインタビュイーの親和性からであろう。一作目は親和性が低く、二作目は親和性が高い。それによって、出てくる分析もずいぶん異なっている。少なくとも、テンションみたいなものはかなり違う。

この段階でいろいろなことがわかる。まず本シリーズは、単一の視点で何かを語ろうというものではない。もしそうなら、二作目も一作目とテンションを揃えてくるだろう。が、そんな風にはなっていない。

であれば、一覧カタログのようにできるだけ多様なものをコレクションすることが目的だろうか。どうやら、そんな感じでもないようだ。もちろん、ある種の多様性は求められているのだろうが、それ自体が目的であるようには思えない。

むしろ本作の魅力は、他者の「やり方」をくぐり抜けた先にある、著者自身の方法論の提示にある。むろん、それは非常に慎重に抑制されている。それぞれの本の主役はインタビュイーであり、その一線を超えることを著者は回避している。とは言えである。本当に著者が顔を出さないつもりならば、後半に付いてくる分析はいっそ不要だろう。解釈は、読者に任せればいい。

むろん、まずインタビューイーの意見提示があり、それに対する著者の解釈提示があることで、それらが相対化される狙いはあるだろう。その上で、読者は読者なりのスタンスを見出して下さい、と一歩引いたところから語られているようにも感じる。

しかし、著者はなぜこうしたインタビューを行い、それに考察を──少なからずの時間を掛けて──加えているのか、という点はやはり疑問に残る。その答えは、著者自身が「自分の方法」について考えたいという欲求を持っているからではないか。「書く」(あるいは書いて考える)という行為の裏側にある技術について、著者自身が何らかの答え(あるいは仮固定された解釈)を提示したいのではないか。

だとすれば、一連のインタビューと分析をまとめたそれぞれの本は、一種の「研究ノート」に位置づけられるだろう。それ自身が読み物として魅力を持つ研究ノートに。

そういう視点から本作シリーズを眺めてみると、最終的に出てくるアウトプットが楽しみで仕方なくなってくる。が、それはもっとずっと先の話だろう。

それが完成するまでは、私たちは個々のインタビューと分析を楽しむことにしよう。それだって、ものすごく面白いのだから、実に贅沢な話である。

書くための名前のない技術 case 2 Marieさん
Tak. [2019]

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