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「デッドライン」(千葉雅也)

『新潮 2019年09月号』に収録されている、著者はじめての小説作品。

一見すると、荒々しく幻想的なその文章は初期の村上龍を彷彿とさせるが、その実一番興味を惹かれるのが文体と内容の呼応である。

「動物になることについての論文を、まさに動物的に書くということですか」
「そうです。テーマがそうであるなら、なおさらそうでなければなりません」

本作はおそらく一定の読みにくさがあるはずだ。それは文体が稚拙なのではなく、またあえて難解なことが書いてあるからでもなく、視点=人称=カメラが一気に切り替わるからだ。いや、それは切り替わるという感覚すら与えない。すっと、何事も無かったかのように移り変わる。あるいは、そうなる

これは、場面が激しく切り替わるということですらない。「僕は」と一人称で語られていた文章が、次の段落には知子の背後にカメラを写し、そこで話がスムーズに続いていく。あるいは客体として語られていた先生が、突然地の文で語り始める。

境目が消えたわけではない。それはしっかりと存在している。「僕」はどこまでいっても「僕」だし、その主客が解け合って一体になったわけではない。単にカメラが移動しただけで、他者は他者としてその在り様を保持している。しかし、その境目が極めて曖昧である。区切りとして存在してるのは、段落のみだ。つまり、実線ではなく、点線による区切り。あちこちに裂け目が存在している。

小説の中で語られる話はなかなかワイルドなのだが、この形式と内容の呼応については極めて繊細な仕掛けだと言えるだろう。むしろ、前者がワイルドであるほど、いっそうこの対比が際立つ。

読者は本作を通して、自分を「僕」に重ねあわせることはできない。少なくとも、スムーズに(≒非摩擦的に)行うことは難しい。特に序盤はそうだ。動き回る視点のおかげで、「僕」は「僕」として読者の中に存在し続けることになる。つまり、読者は読者自身を引き受けなければならない。そのような読書体験を、この形式(と内容)は要請しているのではないか。

といった批評めいた話はさておくとして、なかなか完成しない、というよりむしろ完成する兆しすら感じられない論文執筆の話は実に胃が痛い。ミラクルを期待してあがきながら、しかし実際は特に何もできていない時間の過ごし方など、想像しただけでストレスである。しかしまあ、それがリアルなのだから仕方がない。

最後になるが、これまで私が聴いた論文についての言説で一番好きな一文を引いておこう。

「論文というのは、チャーミングでなければなりません」

たぶん、ブログの文章にも似たことが言えそうだ。

新潮 2019年 09 月号 [雑誌]
[新潮社 2019]

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