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『好き嫌い―行動科学最大の謎―』(トム・ヴァンダービルト)

「好き嫌い」は、たいへん重要なテーマである。

充実した人生を送るために自らの好みを把握しておくことは有用だろうし、またそれを逆算する形で売り込まれる企業活動においても消費者の好みはぜひとも把握しておきたいものだ。

しかし、その把握は存外に難しい、ということが本書を読んでいるとよくわかる。

現代は選択の時代である。いろいろなものが個人の選択に委ねられている。貧しい時代は、そもそも選ぶことすらできなかった。どんな定義を用いるにせよ、選択肢の多さが豊かさの一つのキーであることは疑いないだろう。一方で、問題もある。

好ききらいを判断すべきものは増える一方だが、判断をたすけてくれる大原則や基準は少ない。

そうなのだ。選択肢は増え続けている。しかし、それを選ぶための基準はどうだろうか。私たちはあらゆる選択肢に対する、自らの選考をきちんと把握しているだろうか。そもそも、もっと単純に、自分は自分の好みを知っているだろうか? なぜそれが好きかをきちんと言葉で説明できるだろうか?

これが案外難しいのである。そして、それが難しいのならば、自分の選択の大原則を打ち立てることもまた難しくなる。

そもそも、好みとは、固定的で静的なものなのだろうか。もしそうでないとしたら、好みとは何だろうか。

一つには、好みとは記憶である。私たちは馴染んでいるものをよく好む。そしてこれは循環構造をうむ。好むから接触回数が増え、接触回数が増えるから慣れ、慣れるから好み、好むから接触回数が増える。こうして、好みは強化(固定化)されていく。

一方で、好みとは文脈である。

(前略)好むというのはたんにそれそのものを好むことではない。何として好むのか、それも重要なのである。

そうなのだ。私たちは好みを語るとき、よくこの「〜〜として」を持ち出す。「友人としては好きなんだけど……」という悲しいセリフや、「ライトノベルとしてよりもSFとして抜群に面白い」というレビューなどがそれを示している。まったく同じ対象でも、この「〜〜として」という文脈が変われば、評価も変わってしまう。相対的というよりも、非常に文脈的な反応だと言えよう。

さらに言えば、好みとは趣味や所属の表明であり、文化の吸収であり、個性を感じさせるものですらある。どう考えても単一の何かで語りおおせるものではない。だからこそ、この話は興味深い。

そうはいっても、現代は機械学習の時代である。私たちのワンクリック・ワンクリックが、曲を飛ばし、最後まで効き続けるその姿勢が、多くのチャンネルから何をお気に入り登録するかが、刻々と記録され、分析されていく。なぜ私たちがそれを好むのかはわからなくても、「おそらくあなたはこれをクリックしたくなるでしょう」という限定された選択肢を提示させるためのシステムは着々と整備されていく。

問題は、そこにある。

私たちは口では崇高なヒューマンドラマが好きといいながら、実際クリックするのはゴシップ記事であったりする。機械学習が拾うのは当然後者の私の選好である。

しかし、その口先だけの好みの選好は、はたして何の意味も持っていないのだろうか。そんなものは自らのイメージを飾り付けるただのハリボテでしかないのだろうか。

ただの見栄で家の書棚に百科事典を並べることは、ほんとうに一切合切何の意味も影響も持たないのだろうか。

私は、実際の選択結果だけを学習して提示される選択肢は、やや怖いように思う。それはすばらしく快適であろうし、快を100%にしてくれるのかもしれないが、電極を脳に貼りつけられた猿みたいな感覚も、どうしてもぬぐえない。

ともかく好き嫌いの話は面白く、また現代では欠かせない話題でもあろう。

好き嫌い――行動科学最大の謎 (早川書房)
トム・ヴァンダービルト, 翻訳:桃井緑美子 [早川書房 2018]

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