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フックとしての薄い自己啓発書

今回は、ニーズと流行と文化について。

きっかけになったのは『日常に侵入する自己啓発』という本です。著者は教育社会学者の牧野智和さん。たまたまFacebookでこの本の存在を知り、「ふ〜ん」ぐらいの関心度だったのですが、書店で見かけて、パラパラと参考文献を眺めていたら「倉下忠憲」の名前が。ん? と二度見しましたが、やっぱり私の名前と拙著のタイトルです。

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ
牧野智和 [勁草書房 2015]

さすがに買わないわけにはいきません。どういう文脈で自分の本が引かれているのかは、すごく興味があります。

とりあえず、最初の方をパラパラと読んでみました。先入観で、「昨今の自己啓発書は、こういうところが良くない」みたいなことが書かれている本かと思い込んでいたのですが、どうやらそれほど単純な視点ではないようです。

まず確認しておくと、最近のビジネス書コーナーには、びっくりするほどたくさんの自己啓発書が並んでいます。しかも、それらの大半が「同じようなこと」が「バリエーション違い」で書かれているのです。

もう少し言うと、極端な二つの主張があり、その主張の周りにモザイクのように似通った主張が並んでいる、と言えるかもしれません。たとえば片方には「人生は仕事に賭けてナンボだ」という本があり、もう片方には「仕事なんてできるだけやらないように済ますのがクール」という本があり、それぞれの本に類似本がたくさんある__そんな感覚です。

正直に言って、私はそういう出版状況を「出版社の怠惰だ」と考えていました。手抜きして仕事をして、読者を騙して儲けている、ぐらいにすら思っていました。

しかし本書を読んで、その視点は少し改まりました。

本書では「薄い」と表現されていますが、簡単にサクッと読めて、その中から二つ、三つ役に立つノウハウが見つかるような本。著者へのコミットメントも力強い教養がなくても読める本。そうした本を、気楽に定期的に読むことで、読者は心理的な応急処置を行っているのではないか。そして、不安定な現代社会において、そうした応急処置ですら稀有で、ありがたい存在ではないのか。そんな視点を著者は持っています。

たとえで考えてみましょう。高い場所にたどり着くには、一つ一つ安定した地盤の上に階段を積み上げていく必要があります。基礎的な力が必要です。それはもっともらしく、かつ「正しい」話なのですが、今まさに、真っ逆さまにフリーフォールしている人には何の役にも立ちません。

ものすごい勢いで自由落下している人に、「足下を固めるのが大切だよ」と言っても「は?」と言われるでしょう。そういう人たちに必要なのは、何かつかめるものです。たとえそれがもろくて、いずれは崩れていくようなものでも、落下している状況を止めてくれる心理的なフックです。

「あなたはそれでいいですよ」
「これさえ大切にしておけば間違いありません」

と囁いてくれる声です。その声によって「そうか、大丈夫なんだ」と安心できること、「やっぱりこれが大切なんだと」と信じられること。それが、落下し続ける状況を抑止してくれます。

自己啓発書を複数読んでいると、ほとんど似たような話が何度も顔を見せますが、それは新規性がないのではなく「(あちらこちらで見かけるんだから)やっぱりこれは大切なんだ」という心理的な補強として機能しているのです。深い考察などなくても、それが大切だと「信じられる」材料を提供してくれるのです。

ライフハックに興味を持つ人のきっかけが、多くの場合「仕事で追い詰められていた」というのも、たぶんこの話に近しいものがあるのでしょう。

ここで浮力と重力、そして順番の問題が出てきます。

重力がまったくなければ、地面に立つことはできませんし、浮力がなければ海に沈んだら浮かんでこられません。両方の力が必要なのです。

ある時期、自己啓発書にどっぷり浸かりきって、その後興味が無くなるというプロセスは、一見無駄なように感じるのですが、そうではないのでしょう。

薄い自己啓発書によって、自由落下の期間を何とかくぐり抜ける。そうしてくぐり抜けた後は、そうした自己啓発書はほとんど役に立たないように感じる。で、別の道に進める。こうした順番が大切なのでしょう。

そのように考えると、乱立している薄い自己啓発書も、社会の要請に沿って存在しているのではないか、という視点にたどり着きます。

そもそもとして、そうした本がそれなりの数売れている、という点を無視してはいけないでしょう(よくしたくなるのですが)。実際に売れているという事実を無視しようとすれば、「買っている人が間違っている」ことになってしまいます。モデルを先に立てて、現実を無視してしまうよくあるミステイクです。

買う人が欲しいと思い、お金を出し、いくらかの満足を得ているのならば、そうした自己啓発書も何かしら社会的な意義を有していると考えられます。

もちろん、そうした薄い自己啓発書が、歴史を越えて読み継がれる古典になる可能性は低いにしても、文化の一環に勘定することは不自然ではありません。むしろ自然です。

ここで『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ)を思い出します。

偶然の科学
ダンカン・ワッツ[早川書房 2014]

この本では、情報を広めるための特別な力を持った人(ネットワーク理論ではインフルエンサーと呼ばれる)がいるわけではなく、むしろその人が組み込まれているネットワーク構造こそが情報の流通において決定的な力を持っている、と説かれています。

つまり、煌々と燃えるたいまつがあるだけでは大きな火にはならないが、枯れ木がたくさん集まっていれば、小さいマッチでも大いに火を広げていける、ということです。

私たちは、目立つたいまつに注目しがちですが、実際のところ重要なのは集まった枯れ木の方なのです。少なくとも、再現性はそちらにあります。

自己啓発書に関しても、自己啓発書そのものに注目するのではなく、それを求めている人はどのような人なのか、どういう状況なのかを見据えるべきなのでしょう。そうでないと、「愚昧な本を読んでいる者は、愚か者」的発想に陥ってしまいます。

もちろん薄い自己啓発書が売れているからといって、そうした本を書くことが著者としての最適解とはなりません。いずれそうした本を抜けだして、別の本を求める人たちは一定数出てきます。また、薄い自己気発書であっても、それがどのように読まれているのかを理解できれば、書き方に工夫することで、それまでの自己啓発書とは違った変化を与えられるかもしれません。

考えられることは山のようにあります。少なくとも、「くだらない現象」と互いに素の関係になっているよりははるかに生産的でしょう。

できるだけ、そういう視点を持つようにしたいものです。

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