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『数学ガールの誕生』(結城浩)

「数学ガール」シリーズがどのようにして生まれたのか、いかなる姿勢で生み出されているのか。そんなことが語られている本です。

誠実に対象と向き合うこと。読者を面白がらせたい・楽しませたいという気持ちを持つこと。文章を書くことに真剣になること。筆を持つ人間なら、何かしら得るものがあるはずです。


本書では、随所に「いかにして(より良く)伝えるのか」のお話が出てきます。で、より良く伝えるために必要なことの土台は、「読者のことを考える」ことです。これは同じ著者による『数学文章作法 基礎編』でも口を酸っぱくして強調されています。シンプルながら、クリティカルな姿勢でしょう。

その「読者のことを考える」には、以下の3つの要素が含まれています。

・読者の知識──読者は何を知っているか
・読者の意欲──読者はどれだけ読みたがっているのか
・読者の目的──読者は何を求めて読むのか

これまでの自分の著作活動を振り返ってみると、「読者の知識」と「読者の目的」については配慮できていても、「読者の意欲」についてはあまり配慮できていなかったのではないかと反省が湧いてきました。

私の場合、本を読むときは、読みたい本を読んでいます。読みたい本だけを読んでいます。意欲が湧かない本には接しませんし、その代わり読むときにはぐんぐん前のめりな気持ちで読みます。だから、途中で少々展開が退屈だと感じても、とばして読んだり、中断することはほとんどありません。しかし、一般的な読者が皆そうであるわけではないでしょう。むしろ、パタンと閉じられてそのまま棚にモドされる方が多いかもしれません。

だから、「先を読みたい」「もっと読み続けたい」と思ってもらえるような工夫が必要になってきます。

そう考えたときに、何かを伝える人というのは「橋を架ける人」なのだな、と思い当たりました。ブリッジメーカーです。

橋の出発点は伝えたい人に置き、橋の終了点は伝えたい内容に置く。無事、その人がそこまでたどり着いてくれれば、任務完了、というわけです。

こう考えるといくつかのことが見えてきます。

まず、その橋は「渡る人」(つまり伝えたい人)に基づいて設計されなければいけません。なんといっても、実際に渡るのはその人なのです。しかし、何かを説明する人はときどき、いやわりと頻繁に自分に基づいてそれを設計してしまいます。自分の背丈や歩幅に合わせて橋を作ってしまうのです。それでは、実際に渡る人が渡りやすい橋になるとは限りません。むしろ、たいていの教える人が「知識や経験を有した人」であることを考えると、かなり渡りにくい橋になってしまうでしょう。その橋は一見立派な姿をしているのかもしれませんが、実用性という点においては落第です。

また看板や案内もしっかりつけておくことが必要でしょう。橋が大きければ大きいほど、出発地点からゴールは見えにくくなります。それは不安感を呼んでしまうでしょうし、到着してみたら「ここじゃなかった」なんて事態を発生させてしまうかもしれません。事前の案内は大切です。

そして、「最後まで渡ってもらえる橋」にしておくことも肝要です。

それは橋の途中が大きく欠けていてはいけない、という意味でもありますが、それ以上に意欲を持って最後まで歩いてもらえるようにするという意味もあります。

退屈な風景がずっと続く橋では「もう、いいや」と思って歩みが止まってしまうかもしれません。ページをめくるのも、記述を少しでも理解しようと努めるのも、最終的には読み手の意欲次第なのです。

独裁政権による洗脳に近い教育ならばともかく、自由に何でも選べてしまう現代では、いつでも学びを中断できます。だから、少しでも意欲を刺激するような、あるいは阻害しないような配慮が必要になってきます。

なんだか当たり前のことを書いているような気もしてきましたが、橋を架ける人は、橋を渡る人が最後まで渡れるようにそれをデザインすることが必要、というのは私の中でわりと強い気づきになりました。

ちなみに、これを逆から考えると、多少橋に欠けた部分があっても、渡る人の歩幅でまたげる程度ならば放っておいても大丈夫ということでもあります。また、ぐらぐらと揺れる橋であっても、いやむしろその方が楽しめるという人もいるでしょう。

渡る人のことを考えれば、いろいろな橋の作り方がありえそうです。


著者は自分の役割を次のように書いています。

 こっち側に、すてきな理論を考える人がいます。そしてこっち側には、その理論を知りたい人がいます。そのように、理論を考える人と知りたい人、その間をつなぐ《橋渡し》が私の仕事なんです。
私は自分のことを”interpreter”──つまり「ちゅうかいしゃ」だと思っています。

この「ちゅうかいしゃ」には二つの意味が込められているわけですが、ここで説明するのはやめておきましょう。

私は、自分の役割のイメージを「翻訳者」として捉えていました。ある種の概念をAという容れ物からBという容れ物に移し替える。それによって伝わる人が増える。そんなイメージです。たぶん、これも間違ってはいないと思います。

ただ、「伝わる伝え方」に意識を置いてみると、《橋を架ける人》もなかなか良さそうです。

数学ガールの誕生 理想の数学対話を求めて
結城浩[SBクリエイティブ 2013]

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