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あふれる「わたくしごと」

明らかに自分宛でない記事にわざわざ反応しない – 佐々木正悟ブログメモ

だから、あなたがトルストイ級の文豪なのに「こんな子供だましの方法で文章力が上がってたまるかバカめ!」とイライラするのはまったく筋違いというもので、精神力の無駄遣いもはなはだしい。

これはもうまったくその通りなのだが、でも、ついつい精神力の無駄遣いは発生してしまう。これは一体何なのだろうか。

一つには、だいたいの記事にはトリセツが付いていない点はあるだろう。「この記事はこれまでほとんど文章を書いたことがない人向けで、練習のやり方がまったくわからない人が最初の一歩を取れるように書かれています」みたいな但し書きが冒頭にあれば、トルストイはそっとページを閉じるだろう(たぶん)。

あるいは、私たちは目に入る情報をついつい「わたくしごと」として読んでしまう傾向があるのかもしれない。そもそもクリックして記事を読みにいっている段階で、関心のアンテナはそちらに向いている。となれば、「わたくしごと」として読んでしまう可能性も高まるだろう。


これは記事だけの話ではない。

ソーシャルメディアが幸福度を下げるなら、そこから離れるのが解決方法か? | Lifehacking.jp

仕事をしているあいだも楽しそうに休暇を楽しんでいる友人の投稿を見てイライラとしたり、自分が快く思っていない人が調子がよさそうな様子を目にして(不当なことではあるのですが)気分を苛立たせてしまう。

前者のような「楽しそうな投稿」(ウェーイ投稿と呼ぼう)は、不思議と「私に向けて自慢されているように」見えてしまう。いや、正直なところ私はそういう感覚はまったくないのだが(社会性を担保するどこかのニューロンが死んでいるのだろう)、そういう話はよく耳にする。

FacebookやTwitterも、各投稿にはトリセツがないので、「今楽しい気分で、私の楽しい気分を共有してもいいよって人向けの投稿です」みたいなものは但し書きにはない。とてもとてもフラットに私たちの目に飛び込んでくる。それがときに辛さを増長させる。インターネットが辛さの根源ではないのかもしれないが、もともと持っていた傾向を強めることは十分考えられる。


インターネットは、個人の可能性を大きく広げた。私が日常に顔を合わせる人はせいぜい数人というところだが、Twitterでは相当数の人とワイワイやっている。タイムラインでも400人以上のつぶやきが流れてくる。ようは、大量の他人の「日常」の情報に触れることになる。それを「わたくしごと」として読んでしまえば、それは非常に疲れることになるだろう。

理想的な在り方だと思う。メタファー的に言えば、直視するのではなく、ちらちら見るような感覚が良い塩梅なのだろう。

ちなみに、「感謝してると疲れない」というのはちょっとライフハック的でもある。たしかに憎悪や怨恨や激怒は疲れる。それはメンタル的な動きの激しさと共に、主体性の感覚の有無も影響しているのだろう。後者のような精神の在り方は、基本的に他者に強く左右されるからだ。


さて、結論はなんだろうか。インターネットは使わない方がいい? 無論違う。心が疲れているときはインターネットは見ない方がいい? それはそうだろう。

目に入ってくる情報は、「私」を構成してしまう。その点を留意することだ。「私」が見るものを選び、見たものが「私」を作る。マクルーハンはやっぱり正しいのである。

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