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承認欲求と他者

特集ワイド:「アドラー心理学」今なぜブーム? – 毎日新聞

すごく売れている本を含めて、「アドラー心理学」に関する本は読んだことがない。私は天の邪鬼であり、「売れているなら、まあ別に読まなくていいかな」と思ってしまうからであって、別に本の内容について不満があるわけではないことは一応書いておこう。そもそも読んでないから、内容に不満があるのかどうかすら判断はできない。

上の記事には、こうある。

2冊の共著者で日本アドラー心理学会顧問の哲学者、岸見一郎さんによると、アドラー心理学は「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」とし、「自分が変わることで悩みを解決できる」と具体的な方策を示した点が特徴だという。

「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」というのは、私にはよくわからない。「私」というのは、結局他者との関係性で生じる認識であるから、「私」が抱える悩みが他者に影響されているという点は理解できるが、哲学的な悩みすらも対人関係の悩みとして一括りにできるのかどうかは不明だ。あるいは、そういうのは「悩み」ではないのかもしれない。

それはさておき、強いメッセージは「自分が変わることで悩みを解決できる」だろう。セルフヘルプの源流的な考え方だ。『7つの習慣』にもばっちり書いてある。このような思想あるいは姿勢は個人主義・成果主義の時代ともマッチしているし、絶望感に包まれつつある現代日本社会の中で、「変化」という希望を抱きやすくなる点も人々の共感を引き寄せるのだろう。最近(広義の)「ヒーロー」ものの漫画が広く受容されているのも、ここら辺と関係しているのかもしれない。

ただし、曖昧なメッセージは解釈の余地をいくらでも持つ。「自分が変わることで悩みを解決できる」は、まずこれが万能薬のように見える問題がある。実際は、自分が変わるだけでは解決できない悩みもある。もちろん、自分の母親がアルコール中毒だとして、「そういう存在は母親ではない」と切り捨てることを「悩みの解決」と呼ぶならば話は別だが。

また、「自分が変わらなければ悩みは解決できない」というメッセージにも解釈できてしまう。しかし、人間の力は環境の力比べてちっぽけなものなのだ。そういう周りの力が、自分でも知らないうちに悩みを片付けてしまうようなこともある。だからこそ、私たちは他者やその他の存在に畏敬の念を持つことができる。自分で何もかもを解決したと思っている人間には到底無理なことだ。

さらにたちが悪いのは「悩みが解決できていないのなら、それはあなたが変わっていないせいだ」という言説も引き起こす。これほど冷たく、他者に対する攻撃として機能する言葉はなかなかないだろう。

自分の人生を自分で引き受けて、自分ができることを自らがやっていく。すばらしい姿勢である。でも、それは人生の、あるいは世界のごく一部のことでしかない。自分ばかりに目を向けてしまうと、見失ってしまうものが多い。でも、逆説的に言えば、そういうのを見たくない心理もどこかにはあるのかもしれない。そういう雰囲気をどことなく感じる。あるいは、日本の共同体が致命的に機能していないことを示しているひとつの実例なのかもしれない。

ところでアドラーは「他者からの承認を求めるな」「他人の期待を満たすために生きてはいけない」とも唱えている。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が発達し、「いいね!」など他者の反応を気にせずにいられない時代に、承認欲求を否定する本がなぜ売れるのか。

私は承認を求めることがそんなに悪いことだとは思わない。自分が書いた本が読者に「面白かった」と言ってもらえるのは嬉しいし、次の執筆のエネルギー減ともなる。それとも、これは「他者からの承認を求めている」ことではないのだろうか。本を読んでいないから、私の中の定義が曖昧で、話がまったく前に進まない。

ともかく私は「承認を求める心」は、ごく自然な心の動きだと思うし、それが他者との関係構築に一役買っていると思う。問題があるとすれば承認欲求ではなく「他者」の方だろう。「他者」の範囲を広げすぎ、不特定多数という顔の見えないものにまで意識を向けてしまえば、心が動ける幅がずいぶんと狭くなってしまう。それは避けた方がいいだろう。

ただ、そういう話とはまったく関係なく、上記の本が「対話」で構成されている点には興味を覚えた。たぶん、知識を本で通り過ぎさせるのではなく、読者もまた誰かと対話する必要があるのだろう。

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