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ロングテールとリトル・ピープル (1)

クリス・アンダーソンの『ロングテール』はシンプルながら、示唆に富む本である。これから何度かに分けて、この本について考えていく。基本的には、マーケティングの話になるだろうが、最初はまったく違ったところから切り込むとしよう。

ロングテール‐「売れない商品」を宝の山に変える新戦略 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ロングテールが活かされる世界では、アマチュアリズムが盛んとなり、ニッチなコンテンツが呼吸できる環境が生まれる。ヒットの文化から、ヒット+ニッチの文化となるわけだ。ヒットは相変わらず力を有しているが、以前の世界ほどではなくなる。それは、モイセス・ナイムが『権力の終焉』で描いた世界と重なってくるだろう。ヒットを生み出す構造を権力システムとして見れば、その構図はわかりやすい。

権力の終焉

コンテンツを取り巻く環境としては、これは一つの変化と言えるだろう。ヒットの既得権益からすればやっかいな変化、コンテンツのスタートアップから見れば好ましい変化となる。そこまではいい。何事にも新陳代謝は必要である。ただ、それだけで「よかった、よかった」と幕を下ろせるだろうか。

クリス・アンダーソンは、こう書く。

それがいまや変わりつつある。たまたまそこにいる人々の集まりならではだが、職場ではお互いの文化の溝を越えなくてはならない。そんな職場の井戸端会議は減り、僕たちは既定の放送番組表ではなく、好みや共通の趣味を通じて結びついだ独自のグループをつくるようになってきた。最近の井戸端会議はだんだんバーチャルになっている──実にさまざまなグループがあって、人々は自発的にそこへ集まってくる。僕たちは大衆市場に背を向け、地理ではなく興味で定義されるニッチの国へとはいってく。

何かすばらしい変化が起きているようにも思える。しかし、良いことをもたらす力が大きければ大きいほど、裏側にある弊害にも目を向けなければならない。

ニッチの国では、「お互いの文化の溝」を越えなくてもいい。はじめから文化を共有した人々と気楽にチャットしていればいいのだ。それは濃密で愉悦に満ちた時間になるであろう。でも、そこに何か弊害はないのだろうか。

一つには、「異なる文化」を無視することがデフォルトになる危険性がある。無視するくらいならマシな方で、忌避したり、あるいは積極的に疎外することすらも考えられる。少なくともこれは、民主主義においては危険な兆候だろう。

「大衆」は、言葉通りマスであり、それは世論でもあったが、その背後では社会的弱者を疎外する機能もあった。「大衆」というとき、あたかもそれは市民全般を指しているようにも感じるのだが、実際は「大衆」に入れない人が疎外されている。

では、「大衆」を無くせば、問題は解決するのかというと、むしろ問題はややこしくなる。小規模の集団があまた生産され、それぞれが他者を疎外することで、社会における共通合意が形成できなくなる。50個ほどのミニ政党があり、それぞれが他の政党を嫌っている国会をイメージしてみればいいだろう。おそらく何も決められない。

もう一つ気になるのは、これが「大きな物語」の喪失に結びついていることだ。

(つづく)

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