ひと言でいうなら、「ああ、SAOだった」という満足感で一杯になれる作品だ。アニメ版が気に入っていたなら、見ても損はしないというのはここで書かれている通り。
絵のスケール、SF的描写も申し分ないし、アクションもかっこいい。音楽もほとほと関心してしまうほど見事に作品にはまっている。最初は、「また、歌うアイドル要素かよ」とちょっと近年の流行にのっかっている感に微妙な嫌気を感じていたのだが、歌の要素は違和感なく作品にフィットしていた。映画を見る前にサントラを聞いて、「劇中歌多いな」と思っていたのだが、なるほど、と納得である。
[以下、多少ネタバレ要素あり]
さて、ストーリーなのだが、これはどちらかと言えばアスナが主人公である。もちろん最後に美味しいところを持っていくのはキリトくんなのだが、全体を通して物語の中軸をなしていたのはアスナと言えるだろう。あるいは、二人で一つの物語なのだと言ってもいい。この作話バランスが、その辺の俺ツエー系との差異だとも言える。
舞台は、フルダイブ型のアミュスフィアではない、AR型のオーグマーが発売され、それが一般に普及している社会である。無理に時系列を考えるなら、原作9巻の少し前ということになるだろう。で、そのオーグマーでプレイできる「オーディナル・スケール」という現実拡張型のゲームに秘められた策謀がバックボーンであり、それはそのまま、原作1巻(アニメ版では一期)と重なるものであると言える。だからこそ、感想が「ああ、SAOだった」のだ。初代ガンダムとガンダムSEEDのように、モチーフの通底がここにはある。
とは言え、まったく同じではない。前述した通り、オーグマーはAR型であり、フルダイブ型ではない。本作ではその差異がかなり強く強調されている。キリトは、あきらかにAR型について拒否感・拒絶感を示しているが、それは彼がAR型に慣れていない、という以上のものがあるだろう。なにせ、スリーピングナイツのメンバーは、どう考えてもAR型で楽しく遊ぶことはできない。ボス戦のイベントに集うこともできない。
AR型は、現実で楽しく生きられる人が、それをさらに拡張するものとして位置づけられる。フルダイブ型は、現実そのものを別の位相で再構築する。この二つは似て非なるものであり、キリトは人類のその先をフルダイブ型に見て取っているのだ。これは安易な現実逃避ではない。その面が存在することも否定しないが、(ゲームとしての)SAOで明らかにされたように、逃避した先に待っているのも現実なのだ。私たちはそこから逃げることを許されない。結局、どちらでも死んだらそれっきりというデスゲームなのだ。
ARは、現実をそのままにしてその上にレイヤーを重ねる。そこで生まれるのは、その目の前にある現実の変容だ。フルダイブ型は、そっくりそのまま現実を新しく作り上げる。そこで生まれるのは、「現実」というものの相対化であり、それでいて「生きる」という行為の絶対性である。「現実」はいくらでもそこにある。しかし、どのような現実であっても、私たちはその中で「生きていく」しかない。逆に、そこで「生きている」ものであれば、私たちは皆同一だと言える、という話が、原作9巻以降で展開されるわけだが、それはまあ、エンディングでのお楽しみにとっておきたい。
もう一つ、本作では記憶がキーワードになっている。私たちは、人生を体験し、それを記憶している。私たちが自我同一性を保っていられるのも、つまり、私が私でありつづけられるのも、記憶があるからだ。ではもし、記憶だけが存在していれば、「その人」は存在していると言えるのか。この問題は、私たちに、「その人が存在しているとはどういうことか」という問いを突きつけてくる。苦悩がにじむ問いだ。
ラストのボス戦で、アスナの刺突にユウキの姿が重なったときは、もうそれだけで泣きそうになった。今これを書いているときでも泣きそうになっている。
人は永久には生きることはできない。人にできることは刻むことだ。墓石に名前を、紙に筆跡を、他の人の心に自分の存在を。ただ、それだけが私たちが永遠に連なる方法なのだ。
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