著者は「編集」をひろい意味で使っている。「コミュニケーションの充実と拡張に関する方法」が要約のようだが、概念や情報を扱い、人に向けてそれを提示するあらゆる行為に内在するものとして位置づけられている。
そこに含まれるものは、「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」だと梅棹忠夫によって定義された知的生産と呼応する関係にあるが、両者は完全に重なるわけではない。著者は次のように述べる。
編集には、そもそも人間の認知活動から表現活動までが、記憶のしくみから知識の組み立てまでが、また、メディアによる編集のあれこれからコンピュータ・ネットワーク技術による編集までが、ほぼすっぽりふくまれる。これらのことを研究したり開発する分野を総称して「編集工学」(Editorial Engineering)という。
本書はこの「編集工学」にむけた入門の書であり、より踏み込んだ内容については同じ著者の『知の編集工学』が担当している。どちらも面白いので、順にステップアップしてもいいだろう。
さて、ここで現代における編集の意義について検討してみたい。著者は編集工学の対象を幅広く数え上げる。
編集工学では、人間の意識や認識も編集の対象になるし、国や組織やスポーツや音楽も編集の対象になる。遊びやゲームもスポーツも編集であり、法や契約や外交も編集のやりかたに負っているとみなす。ようするに言葉と記憶の発生から、その交換のプロセスをへて、それらの組織化やシステム化までが、すべて編集の仕事にふくまれていて、それぞれ編集工学の研究対象となる。
概念や情報が頭の中にあるとして、まだその段階では曖昧でもやもやしておりカオスな状態である。何もどこにも定位されていない。しかし、それを表そうとするとき、恣意性が加わってくる。意図が生じてくる。その意図は、「このように伝えよう」「このことを伝えよう」という一種と言い換えてもいい。あらゆる表現には、そのような恣意性が込められていて、うまくそれが機能することもあれば、そうでないこともある。
ざっくり言えば、これはコミュニケーションなわけだが、それがうまくいかないと、意思の疎通・仕事の確立・チームの設立・ルールの設定のいろいろなことが機能不全に陥るということだ。これは由々しき時代であろう。工学的技術の必要性は高い。
また、その技術を知っておくことで、他者から差し向けられたコミュニケーションの裏にある恣意性を読み解く手助けにもなる。これも広義の(あるいはメタの)コミュニケーションではあろう。
そのように考えると、現代が情報交換社会であり、情報組織化社会であるならば、情報工学的な技術は、いっそ生きるための術(すべ)とすら言えるかもしれない。それは単に表現がうまくなるといったレベルではなく、古代ギリシャの哲学者が述べた「よく生きること」にすらつながってくる可能性がある。
世界という舞台に、自分という現象を文脈づけるのだ。