人が、生きるということ。
昭和20年の広島・呉で生きる人々を描く作品。昭和20年(1945年)は、二つの原爆が日本に投下された年でもあり、太平洋戦争が終結した年でもある。
とは言え、本作はイデオロギーに彩られてはいない。きわめて間接的に、それでいてギリギリまで直接的に「戦争」というものを描いている。日常の中にある戦争。戦争の中にある日常。その両方の視座が入り混じる。
が、戦争が中心的なテーマなわけではない。かといって、戦争を疎外しているわけでもない。戦争への情熱とは関係なく人々は生活を送る。それでも、響き渡る砲撃や爆撃機の音は、決して日常から消し去ることはできず、無慈悲にその存在感を示す。そのような状況に置かれても、人はその生活に折り合いをつけていく。それは強さなのだろうか、それとも弱さなのだろうか。
本作からは、人の異様なまでの強さを見て取ることもできるが、その逆に、どうしようない無力さもありありと感じられる。状況を動かすことができず、ただ流されるしかない人間の無力さが突きつけられる。それでも、人は生きていく。矛盾と無力さを抱えながらも、前を向いていきていく。そこでは「頑張れば何とかなる」といった単純なポジティブシンキングは何の機能も持たない。ただ死ぬだけである。
それでも。
そう、それでも人は前を向いていきていく。その複雑な状況は、「よかったね」という言葉を巡る主人公すずの葛藤からも感じられる。簡単に割り切れるものではないのだ。そういうものを腹に飲み込んで、食べられるものは何でも食べて、人は生きていく。そこにあるのは崇高な使命や敬虔な大義といったものとはまったく関係ない、市井の生活である。しかしその市井は、まさに社会とつながっているがゆえに、「崇高な使命」と無縁ではいられない。
ここに単純な答えはない。誰もがすぐに納得できる真理もない。どうしようもなく人生は不条理であり、社会は人々とつながっていて、私は私として生きていくしかない。それは極めてニュートラルなことであり、祈りの言葉を投げかけることもできれば、最後の最後まで呪いの言葉を吐き続けることもできる。それが、人が生きるということなのだ。
オープニングで、ひたすら青い空が描写されているとき、ただそれだけのことなのだが、私はなぜだか泣きそうになってしまった。戦争の結末を私は知ってしまっている。透き通るような空の向こう側に、喜ばしいものが待っているわけではないと知っていたからだろう。
それでも本作から感じたのは、「断絶」である。昭和20年の空と、2016年の空はたしかにつながっている。しかし、日本社会においては何かが断絶している。せいぜい70年ほど前の話にすぎないのに、本作で語られる「生活」は、どこか遠い国の話にも聞こえてくる。それは、文化の発展として喜べることなのだろうか。おそらく、その問いにも単純な答えなどないのだろう。