0

『夜を乗り越える』(又吉直樹)

芥川賞作家:又吉直樹の初の新書。受賞作である『火花』はもちろん読んだことがなかったのだが、又吉直樹という人には興味を覚えたのでちょっと読んでみた。ちなみに、「小学館よしもと新書」という新しく始まったレーベルの第一弾の本でもある。

当たり前の話だが、『火花』は人気の芸人が思いつきとノリだけで書いた作品ではない。それ以前にも作品は(短くても)手がけられているし、それはもう圧倒的に本も読んでおられる。冊数の話ではない。読み方の深さの話だ。その点を確かめられただけでも、本書は読んだ価値があった。ああ、やっぱりそうだったんだな、と。

面白い文章がある。

 十八歳の時、初めて小説を書きました。
 大阪でも百冊くらい読んできて、東京に来てからもまた百冊くらい読んだ。今なら書けるかもしれないと、SFみたいな物語のイメージが頭に広がり、これはおもしろいものが書けると確信し書き始めました。でも原稿用紙十枚しか書けない。しかもあらすじだけで終わっている。え、小説ってどういう構造になっているんだっけ。どんな文体が、構成が、方法があるんだっけ。

非常に「あるある」感があった。

頭の中にある「傑作」は、原稿用紙の上に展開していみると、驚くぐらい貧弱だったりする。それはもう悲しくなるくらいに。それだけではない。小説を構成する技法についてまったく自分が無知であることも痛感させられる。私も、自分でライトノベル風の文章を書き始めたとき、慌てて過去に読んできたハードボイルド小説を読み直したことがある。会話文の書き方がまったくわからなかったのだ。

「あなたは以前とちっとも変わっていないのね」
 彼女はそう言った。

「あなたは以前とちっとも変わっていないのね」と彼女は言った。

どっちだ。どっちが正しいのだ。そんなことで悩んでいたこともある。

技法というのはコンテンツではないので、基本的に「目には見えない」。だから、私たちは小説を読みながら、その技法について知覚を振り向けることはない__そうせざるを得ない作品は稚拙か奇抜かのどちらかだ__。でも、自分でひとたび筆をとってみると、嫌でもその技法の存在に気がつかされる。プロがプロたる由縁がわかる。

上の文章はこう続く。

 その時から初めてそういう視点でも小説を読むようになりました。おかげで読書がすごくおもしろくなりました。すべての作家をまず尊敬することができました。小説の一行目からおもしろくなりました。

読むことと書くことは、ほとんど緊密なぐらいに密接している。少なくとも、書くことは読むことの解像度を上げてくれる。それはそれで、素晴らしい体験である。

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)
又吉直樹 [小学館 2016]

▼目次情報

  • はしがき
  • 第1章 文学との出会い
  • 第2章 創作について— 『火花』まで
  • 第3章 なぜ本を読むのか — 本の魅力
  • 第4章 僕と太宰治 
  • 第5章 なぜ近代文学を読むのか — 答えは自分の中にしかない
  • 第6章 なぜ現代文学を読むのか — 夜を乗り越える
  • あとがき

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です