「最後に一度だけ、原爆を東京に」
なんと挑発的な帯だろうか。むろん内容も負けじと挑発的である。
東京オリンピック開催が迫る3月11日に、東京で核を使ったテロが行われる。当然、それを阻止しようとする陣営と駆け引きが行われて、それ自体がサスペンスとして楽しめる。プロローグを潜り抜け、二〇二〇年三月六日(金曜日)に入った瞬間からページを繰る手が止まらなかった。物語として、純粋に楽しめる。
しかし、それだけではない。藤井の他の作品がそうであるように、本書もたいへん啓蒙的な要素を持つ。さまざまな情報が散りばめられ、読者の脳に滑り込んでくる。科学と情報、国家と市民、何を信じるのかという姿勢、信念を持つものの行動。私たちはじっくりと考えこむことになるだろう。
とは言え、本作は啓蒙という言葉から感じられるような冷静沈着な雰囲気だけで構成されているわけではない。むしろ、怒りや苛立ちといったものがうっすらと感じられる。登場人物である但馬の鋭利なまなざしに重なるそれは、東京で核を使ったテロが行われない限り、この国の状況は変わりようがないのではないか、という批判の声としても響いてくるだろう。それは、絶望でありながら、本作という虚構を通すことで、変化への期待として色合いを変えていくはずである。
本作を読みながら、私は対比的に映画『シン・ゴジラ』のエンディングを思い出した。ゴジラは凍結され、東京のど真ん中にシンボルとして屹立し続ける。核によって穿たれた穴もまた、それと同じような効果をもたらすのではないか。
しかし、本当に大切なのは、それが日本という一つの国だけで閉じた問題ではないことであろう。藤井の作品は、国際的な舞台と登場人物が入り乱れる特徴を持つが、その視野こそが重要なのだ。核と向き合っている国は日本だけではないし、これからも──どういう形であれ──そこから眼差しを逸らすことはできない。これは、基本的な現実である。
3.11と東京オリンピック。実にキャッチーな要素を扱っているが、藤井がキャッチーさだけで踊る作家ではないことを私たちはよく知っている。「二度と繰り返さない」という誓いのもので、それについて思考停止が状態化している私たちに突きつけられる「ワン・モア・ヌーク」というフレーズは、決してたやすく抜けるトゲではないはずだ。