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長文と読者のことを考えること

「ウェブでは長文は読まれない」

そんな言説がある。首をかしげる。どういうことだろうか。

もしこれが、

「ウェブでは長文は読まれにくい」

なら納得できる。でも、それだって何も言っていないに等しい。

私自身がウェブでも長文の記事を読む。ときには「キタキター」と感じることすらある。だから最初の言説は私の実感にそぐわない。

そもそも長文の定義が難しいが、それが1500文字以上を指し、「ウェブでは長文は読まれない」が真であるならば、R-styleのアクセス数は0なはずである。むろん自慢できるほど多くはないが、それでも0ではない。読まれてはいる。

だから長文は読まれにくいのだろうが、それはウェブは関係ないだろう。好きこのんで長い文章を読む人は、全体としては少ないはずだ。だから、「ウェブでは長文は読まれにくい」は何も新しいことを言っていないことになる。


だからどうだというのか。

読者のことを考える、ということについて書きたいのだ。

たしかに統計的に見れば、長い記事よりも短い記事の方が読まれやすくはあるだろう。でも、長い記事を読んでいる人のことを忘れてはいけない。ここが大切だ。

読者のことを考えて、そういう人たちはたとえばスマートフォンを使っているし、隙間時間に記事を消化するだろうから、記事を短くしよう、という発想は良い。とても健全な発想だ。

でも、「ウェブでは長文は読まれない」という話を聞いて、よし、じゃあ短い記事を書こう!と発想するのはどうだろうか。その人は読者のことを考えたのだろうか。いささか怪しい。

もし、ほんの少しでも考えてみたときに「いや、長い記事でも読むことがあるな」と思うなら、自分なりの選択をすることもあるだろう。しかし、鵜呑みにしている間はそれがない。そして、それが問題なのだ。鵜呑みには「あなた」がどこにも入っていない。

最終的に出てくる答えがどのようなものになるのか、そしてそれが正しいのかどうかすらわからない。それでも、自分で考えて選択肢を検討し、何かを選ぶ(何かを選ばない)ということは重要な意義を持つ。そこに「あなた」が入ることになるのだ。


完璧な表現はない。完全な文章はない。だから、私たちは何かを選ばなければいけない。言い換えれば、何かを拾い、何かを捨てなければいけない。この文章だって、意味不明・ちんぷんかんぷんな人がいるだろう。そのことを承知した上で、私はこの文章を書いている。選択しているのだ。

そして、その選択の中に「わたし」__かっこよく言えば私の意志__が宿ることになる。

つまり、読者のことを考えることは、結果として「わたし」の文章を書くことにつながっていく。

この点を勘違いする人がいる。

「こういう読者はこういう文章を好む」という誰かが立てた言説を検討もせずに従うことを、「読者のことを考える」だと思う人がいる。まったく違う。まるで逆なのだ。そういう姿勢は、読者のことをいっさい考えていない。「読者」という統計データに身をゆだねているだけだ。でも、それは読者ではない。


読者について考えることは、読者に迎合することでもないし、読者の下僕になることでもない。誰かにその文章を届けようとすることだ。実際それはひどく簡単で、極めて難しい行為である。選択は自由で、正解はない。そういうものなのだ。

書き手が自分で考えて選択するからこそ、さまざまな答えが提出される。それぞれは、ほとんと間違いなく不完全なものだ。だからこそ、この世の中にはあたまの書き手の存在余地がある。もし完璧な文章が存在しうるなら、それ一つで良いはずだ。でも、世界はそうなってはいない。

それは祝福していいだろう。

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