哲学をめぐる7日間の講義。
形式は「哲学者」と「読者」の対話であり、「読者」が疑問を提示し、「哲学者」がそれに答える(あるいは応える)形で話が進んでいく。
彼らは、固有名詞を持たされていない。抽象化された概念、あらゆるものの象徴である。「哲学者」はさまざまな哲学者の代表であり、「読者」は我々読者の代表である。そこで行われる対話が本書の軸だ。
また、ところどころに「メモ」が挟み込まれている。「読者」がそれまでの講義の内容をまとめるという体でつっこまれてはいるが、言う間でもなくそれは読者に対する内容の要約であり、復習であり、話の一区切りを生み出すアクセントでもある。この辺が「対話」ではなく「講義」となっているポイントであろうか。
※副題は「七日間の特別講義」
章立ては以下の通り。
月曜日 どう生きていくか?
火曜日 他人とどう生きていくか?
水曜日 道徳にはどれほどの客観性があるのか?
木曜日 何を知ることができるのか?
金曜日 世界には何が存在するのか?
土曜日 哲学とは何か?
日曜日 哲学は何のためにあるのか?
哲学の系譜を辿っていくのではなく、哲学という行為の中心にあるもの、その視座を支えるものを「哲学者」と「読者」が考えていく。その行為そのものが、もちろん哲学という営為の一部ではあろう。
問いを立て、それに挑むこと。基本的な、言い換えればより根源的な問いに臨むこと。日常的な「当たり前」、つまりこの背間の基盤について、疑義の眼差しを向けること。つまりは、「考える」こと。
一般的に、哲学書を読むことは、それぞれの哲学者の思惟の流れを辿ることである。頭に浮かんだときよりは、いくぶん整理された形で提示されているとは言え、そこには思考の流れがたしかに存在している。本書では、それを対話の形で提示する。プラトンがやったように、問う人と答える人を明示的に区別することで、思考の探究がどのように進むかをはっきりと(やや誇張した形で)見せてくれている。その姿勢は、入門書向けではあろう。
結局、本書のタイトルでもある「哲学の基本」とは何だろうか。考えること。考えることについて、考えること。それに尽きるだろう。メタな階段を行き来し、私たちが生きているということについて、生きている私たちが考えること。
だからこそ、哲学は面白い。哲学史は歴史であり、それもまた面白いのだが、その知識とは関係のないところで、考えることそのものが深みのある面白さを持っている。
一番大切なのは、自分が何について、どのように考えているのかに注意を払うことであろう。さまざまな哲学者がそれをやってきたし(デカルトはかなり頑張った)、その姿勢は哲学に関与しなくても多くの場面で活きてくるはずだ。