Lifehacking Newsletter 2016 #21より
それを前提とした上で “strive” 「目指せ」という言葉を入れたことによって、これはもろさを引き受けてそれでも “dare greatly” 「大胆に試みよ」と呼びかける素晴らしい言葉になっているのです。
以前から、「それでも」の姿勢について書きたいと思っていた。それについてのエッセイ集を書き下ろす計画すらあるくらいだ。
ちょうどよい機会なので、その本の一項目を書くようなつもりでこの記事を書いてみる。
私は前々から「ストックデールの逆説」を強力に信奉している。
「ストックデールの逆説」は、『ビジョナリー・カンパニー 2』に登場する概念で、企業を偉大なる企業へと導いた経営陣が持っていた二つの、そして相反する姿勢を表現している。
一方では、決して目をそらすことなく、厳しい現実を現実として受け入れている。他方では、最後にはかならず勝利するとの確信を持ちつづけ、厳しい現実はあっても、偉大な会社になって圧倒的な力をもつようになる目標を追求している。この二面性を、われわれは「ストックデールの逆説」と呼ぶようになった。
夢を見ることはたやすい。厳しい現実に屈するもたやすい。難しいのは、厳しい現実を見据えた上で、夢を見ることだ。そして、それこそが物事を前に進める強力な力となる。
リチャード・P・ルメルトによる戦略論の名著『良い戦略、悪い戦略』も、これを支持している。ルメルトは、悪い戦略の特徴を4つにまとめていて、
- 悪い戦略の特徴1 空疎である
- 悪い戦略の特徴2 重要な問題に取り組まない
- 悪い戦略の特徴3 目標を戦略ととりちがえている
- 悪い戦略の特徴4 まちがった戦略目標を掲げる
このうちの二つ目がまさに「ストックデールの逆説」と同じなのだ。ルメルトはこう書く。
戦略とは、本来困難な課題を克服し、障害物を乗り越えるためのものである。その課題に立ち向かわないなら、戦略の意味をなさないし、それを評価することもできない。戦略の質的な評価ができないとすれば、悪い戦略を排除することも、良い戦略をより良くすることもできないだろう。
課題は困難なものである。困難であるからクリアすべき課題になると言ってもよい。悪い戦略はそれを見据えようとしない。困難な課題から目を背けてしまうのだ。逆に言えば、良い戦略とは「ストックデールの逆説」と同じように、厳しい現実を見据えた上で、それを乗り越えようとするものであるわけだ。
心理学方向からは、ガブリエル・エッティンゲンが『成功するには ポジティブ思考を捨てなさい』で同様の指摘をしている。単純にポジティブに考えるだけの人は、現実的な計画を立てることができない。ようは脆いのだ。実際に現実にはネガティブなことが起こりうるのだから、それに対処しなければならない。でも、ポジティブにだけ考える人はまったくその準備が出来ていない。だから、現実の前に押し流されてしまう。
無菌室の中で育つと、体の中の免疫反応が弱まってしまい、その状態で菌に触れると、普通の人なら何の問題もないような弱い菌でも劇的な症状が出てしまう、というのに似ているかもしれない(そういう話が実際にあるのかは知らないが)。
これがお気楽なポジティブ思考のぬぐいきれない薄っぺらさでもある。そうしたモノ・ポジティブ思考はネガティブなことは考えないようにしましょう、と述べる。夢を邪魔するような発言には耳を貸すな、というわけだ。それがどれだけ有益で、現実的なアドバイスや助言であっても気にしない。そんなものからは目を逸らして、ただ自分の夢を追い続ければいいのです、と説く。
そういう人たちは、結局起こりうるトラブルや失敗に準備ができていないので、通常以上のダメージを喰らってしまう。そして、ボンっだ。
ようは二つの力が必要なのだ。
長期的な成功を収めている企業はだいたいワンマン社長と、それをサポートする真逆のスタンスの副社長がセットになっている事例がまさに最適だろう。あるいは、自分の意見に反対の意見がでるまで議題を締めようとしなかった社長のエピソードも同じ方向を示している。
車にはアクセルとブレーキが両方必要なように__アクセルとブレーキを足して2で割った装置一つだけなんて怖くて運転できないだろう__、両方の力が必要なのだ。プラスとマイナス。進行と停止。希望と困難。
『ブラック・スワン』で有名なナシーブ・ニコラス・タレブは『強さと脆さ』の中で次のように述べる。
生きた組織(人間の身体でも経済でも)には変動性とランダム性が必要なのだ。それだけじゃない。組織に必要なのは果ての国に属する種類の変動性であり、ある種の極端なストレス要因だ。そういうのがないと組織は脆くなる。
だからこそ、イエスマン(あるいはイエスパーソン)で固めた社長がマネジメントする企業は、強力に前に進めるが、その分大きく転けてしまう。そして、それに気がついても足を止めることができない。強くなればなるほど、脆さを抱え込むことになるのだ。
哲学的な見地にも入ろう。
私たちの認識は、「絶対」から入る。何かしらの思想を(意識・無意識問わずに)絶対的に信奉する。
しかし、いろいろな知識に触れることでそれが徐々に「相対」へと移っていく。物の見方がひろくなるわけだ。それはそれで素晴らしい。
が、それが極端な方向に進むとやっかいなことになる。「絶対的なものなど存在しない」というやつだ。こういう相対主義は、一瞬で虚無主義へと吸い込まれてしまう。比較の対象を無限の彼方に設定すれば、あらゆるものが無価値に等しくなる。
50億人の人間と比べれば一人の人間の命など塵芥以下だし、50億年後の人類を考えれば今生きていることに意味などなくなる。「どうせ絶滅するんだから、今死んでも一緒でしょ」
そのようにして意味から手を離してしまう。でも、それは柔らかくいって知的怠惰であるし、生からの逃避である。欺瞞であり、幼稚なのだ。
よって、しなやかなで力強い思考とは、一度全てを相対化した上で__さまざまなものに価値を認めた上で__「それでも、私はこれが価値があると思います」と述べることだ。それには勇気がいるし、責任も伴う。そこから逃げないことが「それでも」の姿勢である。
話はずいぶんいろいろなところを巡ってきた。
個人的に、「それでも」の姿勢はたいへん強力だと思う。ただし、それは楽ではない。なぜなら困難な現実を直視しなければならないからだ。どうしても足が震え、ガクガクプルプルが止まらないかもしれない。でも、そこで「それでも、僕は」と思えるならば、きっと心に力が湧いてくるだろうし、手をさしのべてくれる味方も出てくるだろう。
おそらくそれが「意志」というものの在り方である。
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