ロングテール的な「物語」の在り方は、生の意味づけのタコツボ化を生み、他者への共感を欠いた人々で構成される社会を生む。あるいは、それはもはや社会とは呼べないかもしれない。それくらいには不安定な状態になってしまうだろう。
かといって、「大きな物語」の復権は望めない。ITの進歩から見ても、それが起こるのは難しいと予想される。インターネットの普及は、当然のようにロングテール的なものを導く。今後もさらにネットワークの端末は世界中へと広がっていく。一部の国はそれを遮断しようと試みるだろうし、国に力があるうちはそれも可能となるだろうが、いつかは限界がやってくる。世界的な戦争が起こらない限りは、ネットワークの拡大は止まりそうもない。
さらに、パーソナル・カスタマイズがある。Googleは、すでに私たち一人ひとりの行動傾向に合わせて、返す検索結果を微調整している。いや、もうそのレベルは「微調整」とは呼べないかもしれない。はっきり「変えている」と言う方がフィットしそうな気もする。そして恐ろしいのは、それが断言しにくいことだ。少なくとも、日常的に生活しているだけでは、他人と自分の検索結果の差異は分からない。特に政治的な話題に関してはなおさらである(日本人はあまり他の人にそういう話をしないから)。
そうした情報のカスタマイズ、言い換えれば恣意的なフィルタリングがもたらすのは「フィルターバブル」である。イーライ・パリサーが『フィルターバブル』が提示したように、私たちに届けられ、私たちが摂取する情報が偏っていると、私たちの価値観や信念も偏ってしまう可能性がある。しかも、私たちはそれに気がつかない。
その環境が行き着く先は、タコツボ化する「小さいな物語」とまったく同じだ。自分が満足できる情報ばかりに囲まれ、不快な情報を遠ざけることで、環境が異なる人への共感や理解が減少してしまう。
ウェブサービスが利用者を獲得するためには、こうしたカスタマイズサービスによる差別化を利用するわけであり、しかもそれが実際に利用者を長くつなぎ止める要因ともなるわけで、今後はどんどんとこうしたパーソナル・カスタマイズが進んでいくだろう。それはすなわち、私たちがフィルターバブルに閉じ込められてしまう可能性がアップすることも意味している。
そして、これはまだ「現代」の話なのだ。「未来」には、VRなどさらに私たちと情報を近づける装置が生まれ、そして普及するようになる。そうなったとき、言葉通り日常に目にする全てがフィルターされてしまう可能性もあるのだ。今のインターネットであれば、Google以外の検索サイトを使ったり、図書館に行って調べ物をするなど、情報を相対化することで、フィルターバブルの膜を破れる選択肢は身近にある。
が、日常をVRの中で過ごし、そのVRが偏向した情報のみを伝えるとき、私たちは真の意味でフィルターバブルに包まれることになる。それに包まれているという違和感や、危機感をまったく抱くことなく、である。
上記のような話で、送り込む情報が単一の主体によってコントロールされているならば、それは大きな物語と言えるし、個人向けに最適化された情報に寄っているのなら小さな物語と言える。おそらくは、後者の方向に進んでいくだろう。
そもそも「大きな物語」は、ロスが大きい。しかも不完全だ。その意味で、「大きな物語」が解体されることは基本的には良いことだと言える。ただし、それによってつなぎとめていた人々の絆、共感といったものが消える問題はどうにかしなければいけない。「小さな物語」は、効率は良いかもしれないが、結局それも不完全なのである。タコツボ化に先はない。
では、どうすればいいだろうか。
ありきたりな考え方としては、「中ぐらいの物語」の設定である。
しかし、そんなことが可能だろうか。
(つづく)