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Lifehacking Newsletter 2016 #14より 〜コンテンツをいかに運ぶのか〜

[Lifehacking Newsletter] 2016 #14 「コンテンツは王者」の先へゆくパブリッシャー向けMediumより

Mediumやnoteといったプラットフォームが最近元気である。気にならないわけがない。

まず基本事項から確認しておこう。

ウェブ時代における情報発信において、公式のように常にいわれてきたのは “Content is king” (コンテンツは王者だ)というモットーです。面白い話題とそれを語る声があり、純粋に読んだり見たりして楽しいものであるならば、それは多くの人に読まれ、シェアされ、広がっていくという意味です。

この視点は絶対に揺るがない。「面白いコンテンツ」は土台であり、「読まれるためのテクニック」は二階、三階部分である。これを忘れてテクニック収集に走っても、得るところは非常に少ない。

ただし問題はある。

「面白いコンテンツとは何か?」

コンテンツクリエーターにとって永久なる命題だろう。それだけではない。コンテンツが流れるメディアやプラットフォームによっても、その「面白さ」は変化しうる。この点を見逃すと、「良い物を作ったら、売れる」的過ちにはまってしまう。

これを踏まえた上で、一つタイムマシンに乗ってみよう。


インターネットなるものがある程度使われ始めたころ、主役は「お気に入り」であった。面白いと思った≪ホームページ≫をブラウザのお気に入りにいれておき、それを定期巡回することが行われていた。その当時はYahoo!のディレクトリ型ポータルサイトも人気であった。

姿が変わるのは、RSSリーダーの普及だろう。おそらく日本におけるライフハックブームの走りとも重なっているだろう。RSSリーダーというツールによって、読み手がいちいち≪ホームページ≫にアクセスする必要はなくなった。自分のもとに情報がやってくるようになったのだ。その頃ウェブを使っている人にとっては福音だっただろう。

さらに時代が流れ、Twitterがやって来た。Facebookもやってきた。その流れによって、キュレーションアプリやらバイラルメディアもやってきた。ここでも読み手は、いちいち定期巡回したりはしない。テレビを見るように情報が自分のタイムライン(あるいはアプリ)に流れてくるのを待っているだけで良くなったのだ。

そして、情報の流れ方が変わった。第一にRTなどの機能によって、自分が読むと想定していなかったコンテンツが目に入るようになった。お気に入りやRSSは、「この人に決めた」という選択が先にあり、それはそのままどんな情報が自分の元に流れてくるのかを自分で選択することでもあった。RTは、そうした囲い込みを越えて情報を流してくる。これは単純に良いことだと言えるだろう。書店で名も知らない作家の本に出会えるのは幸運なことであるのと同じだ。

ただし代価もあった。RSSリーダーの補佐的に使われるのではなく、むしろ代替として使われる場合、発信元のコンテキストは非常に緩くなる。誰が書いているのか、あるいはその記事の前に何が書かれていたのかが意識されなくなるのだ。その代わり、たとえばRTした人のコンテキストにコンテンツは置かれることになる。

つまりは、断片化だ。それだけではなく、コンテンツは本来持っていたコンテキストをはぎ取られ、新しいコンテキストを付与される。どのようなメディアであっても、そうした断片化から逃れることはできないが、SNS的情報摂取ではそれがごく当たり前に、言い換えれば意識されずに行われる。

このことはメディア主と読み手の結びつきを弱める効果があり、そうしたメディア的性質に寄り添う形で新しく生まれるメディアは結びつきを無視して成立する特徴を持ち始める。メディアはメッセージである。

ただしこれを単純に「読み手の性質の変化」として把握すると間違いが生じる。たしかにある程度の変化はあっただろうが、そういうわけではないのだ。今でもRSSリーダーを使っている人は少なからずいる。もちろん、古来からそれを使ってきた人たちだ。

つまりは、参加者が増えたのだ。インターネット普及当時では、ネット上を徘徊していたのはいわゆるオタク的な人か研究者的な人、あるいはイノベーターと呼べる人たちであった。スマートフォンとタブレットの普及でそれが一変する。ようは「ごく普通の人たち」がインターネットワールドに足を踏み入れるようになったのだ。

そうした人たちはぜんぜんギークではない。だから、RSSリーダーなんて存在も知らないし使いたくもない。そういう人たちは、これまでの情報摂取と同じような感覚で__つまりはテレビを見るのと同じような感覚で__情報摂取を行う。それがSNSであり、ニュースアプリなのだ。

手段が手軽であればあるほど、それは大衆に向けて開かれる。そして、今はそうなっているのだ。

だからPVを稼いで広告料で、というモデルをやるならば狙うターゲットはマスである。つまり、新規参入者である。間違ってアドセンスの広告をクリックしてしまうような人をたくさん捉まえられれば、収益は上がる。それも一つの手段である。しかし、そうしたメディアが、路線変更して「課金的」なコンテンツを売ろうとしてもうまくはいかない。なぜなら客層が違うからだ。

この点は十分に理解しておいた方が良い。ユーザーの違い、客層の違いだ。


さて、視点を変えてメディアフォーマットとしてのMediumやnoteについて考えてみよう。

まず第一に、参加するのが楽である。ドメインを取得する必要もないし、WordPressをインストールする必要もない。「個性的なテーマ」を探し回ってお金をつぎ込む必要もない。個を特定できるアイコン一つあればそれで良い(※)。
※逆に言えば、どのようなメディアであってもアイコンは力強いという点は留意されたい。

第二に、書くのが楽である。ツイートを書き込むような手軽さで、一つの記事を書き上げることができる。

第三に、読むのも楽である。なにせこれらのプラットフォームには「うっとうしい情報」がほとんどない。すでにブログはアドセンスとアフィリエイトに浸食されていて、サイドバーだけでなく本文中にまで広告(それも目を惹く画像広告)が入っている。そうした記事に慣れていると、Mediumやnoteのあまりの清々しさに驚きを感じるだろう。「記事を読む」ということに集中できる。

形式が決まっていて、デザインがほとんどいじれないという点は、一つの「コンテナ化」と言える。コンテナが流通を効率化する話は『コンテナ物語』で面白く語られているが、それをたとえばメディアに置きかえれば「新聞記事」が一つのコンテナである。体裁やら文字数が決まっていて、誰が書いても同じような情報を読み手に伝えることができるし、また読み手も書き手のことをいちいち考えなくても済む。情報流通は、そのようにして効率化する。

ウェブ上に目を向ければ、Wikipediaが絶妙にコンテンツを「コンテナ化」している。これはいちいち指摘するまでもないだろう。その意味で、Mediumやnoteは、弱いWikipediaとも言える。そこには多少なりとも「コンテナ化」が機能しているが、それでも「誰が書いているか」という点は抜け落ちない。書き手が少し前面に出てきている。

ただしその程度は「少し」である。この点をどう評価するのかが、こうした新しいプラットフォームをどのように利用するのかの判断に関わってくるはずだ。


Twitterが出てきたとき、「なぜブログに書くのか?」がそれぞれのブロガーに問われた。結果、TwitterやFacebookでいいじゃん、と判断して実際その形に移行した人も少なからずいる。でも、すべてがそうだったわけではなく、それぞれの理由の中でブログを選択した人たちも残った。

同じようにMediumやnoteといった新しいプラットフォームが登場すると、「なぜ自分のブログに書くのか?」という問いが突きつけられる。

どのように考えればよいのだろうか。実は、簡単な話なのである。

「誰に、何を、どう読んでもらいたいのか」

これだけを考えればよい。結局すべてはこの問いに返ってくる。ただし、この問いに答えるためには、それぞれのメディアの性質や、どんな人が利用しているのかについて敏感になる必要はある。それが面倒なら、まあ流行に流されておくのがよいだろう。

一つ言えることは、自分のブログを自前で持つということは、ウェブ上に自分の「場所」を発生させることである。それは簡単に言えば「一軒家」のようなものだ。そして、プラットフォーム上にそれを置くことは、「間借り」となる。もちろん、間借りであるが故の利便性もあるが、デメリットないわけではない。それは「一軒家」でも同じである。

もう一度言うが、「誰に、何を、どう読んでもらいたいのか」を考えることだ。それは「ブログで儲けたい」と考えている場合でも同じである。お客を無視して商売はできないし、読み手不在の読書もありえない。

流行廃りの前に、まずは自らのやりたいことを見据えた方が良いだろう。

書籍の解体とフラグメント・コンテンツ、氾濫するアメーバ・センテンスや、クリエイターのアイデンティティーと過ぎ去りし書店員の憂鬱、およびキュレーションの価値とホット化したメディアについての詩
倉下忠憲[2015 倉下忠憲]

コンテナ物語
マルク・レビンソン [日経BP社 2007]

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