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魔法の世紀(落合陽一)

1981年にエジソンが発明したキネトスコープから、映像はあっという間に私たちの生活へと入り込んできた。当初は箱をのぞき込む必要があった。やがてはそれがスクリーンに投影されるようになる。今では、一家に一台以上テレビがあるだろう。

そのメディアは、もちろん力強い。なにせ映像喚起力が必要ないのだ。優れた文章家だけが持つことができる、イメージを想起させる力。映像にはそれが必要ない。ダイレクトに、自らの思想を相手の脳にたたき込むことができる。『一九八四年』の世界だって、誰もが映像に魅入られていたのではなかったか。

19世紀末からスタートしたこのメディア的状況を著者は「映像の世紀」と括り、その上でその先の未来を「魔法の世紀」と呼ぶ。一体何が魔法なのだろうか。


一つには、「目に見えない・理解もできないすごい技術」という点だ。

真空管の時代ならば、まだその技術は「ちょっとした素人」でも扱えた。現代ではどうか。すでにちんぷんかんぷんな技術は多いが、今後はもっと増えていくだろう。著者の研究はそんなものの一端を示している。

人々は、こうした技術の理屈を知ることもなく、いや、そこに技術があることすら意識することなく、それらの恩恵にあずかることになるだろう。それが「魔法」だ。

それだけではない。著者が「映像の世紀」から「魔法の世紀」への転換のキーとして見ているのがコンピュータだ。2016年ではいまさら感ある話題かもしれない。しかし、あの箱が私たちの何を変え、そして今後何を変えていくかに思いを馳せることは決して無駄ではないはずである。

当初、コンピュータはその箱の中に奇跡をもたらした。プログラミング入門者が、最初のコード__「Hello,World」__を無事走らせたときに感じるあの気持ち。まさに魔法使いのそれであろう。彼は、コンピュータの中に奇跡を起こせる存在となったのだ。

しかし、インターネットがその魔法を劇的に変化させた。一つには、マスメディアのような一方向の情報流通ではなくなったこと。もう一つにはそれが自分以外の(ようは世界の)人間に作用するようになったこと。キネトスコープの映像が箱の中からスクリーンへと飛び出していったように、コンピュータの中の魔法は、外界へと作用するようになっていた。

他の流れもある。たとえば3Dプリンタがそれだ。コンピュータは、もはや花粉を運ぶ蜂たる人間の存在を介さなくても、現実に作用を与えてしまう。今後はIoTも普及していき、「コンピュータの手の届く場所」は観測できないほど広がっていくだろう。

これらの流れが混じり合い、新しい大きな流れを生むとき、「魔法の時代」が訪れる。著者は、アーティストとして、そのとき人間とテクノロジーがどのような関係であるかも合わせて語る。その視点は、遠くの未来をしっかり見据えているようだが、SFにしか聞こえないかもしれない。まあ、その両者が交わるところが「魔法の時代」なのだから仕方がない。

個人的には第5章、第6章には難しい部分が多いと感じたが、それを差し引いても意欲的な一冊である。また、「映像の世紀」を再確認するための一冊でもあるだろう。

魔法の世紀
落合陽一[PLANETS 2015]

一九八四年 ハヤカワepi文庫
ジョージ・オーウェル[早川書房 2009]

IoTビジネスモデル革命
小林啓倫[朝日新聞出版 2015]

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