Lifehacking Newsletter 2016 #18より
読書について考える上で、「古典とどう付き合うか」は結構大きな問題です。
人によっては、古典以外を読んでも仕方がない、とばっさりと新しい本を切り捨てている人もいますが、それもまた一つの選択ではあるのでしょう。でも、個人的には淋しさもありますし、そもそも科学の分野では新しい情報が必要なわけで、そういう割り切りができるのは、文学や哲学の分野に限って、ということかもしれません。
古典作品には仰々しさと荘厳さが微妙な割合で混じっていて、微妙な近寄りがたさがありつつも、手に取ってみたい気持ちがときどき刺激されます。
シンプルに言えば「古典だから読む」というのも「古典だから読まない」というのも変な話で、興味があれば読めばいいし、興味がなければ読まなければいいだけの話です。でも、人の心はそんなにシンプルに割り切れるものではありません。教養に向けてちょっと背伸びするような気持ちで本を取ることはあります。スノッブなミーハーというやつですね。
でも、それすらも受容すればいいでしょう。「身の丈」にあっている本だけを読むというのも、それはそれでつまらないものです。動機がスノッブなミーハーであっても、何かの本に関心が向いたのなら、やっぱり手を伸ばすのがよいのでしょう。そして、そうした読書で何一つ得られなくても、気にすることはありません。読書って、基本的にそんなものです。
人間関係と同じように、縁と出会いを大切にし、ときにすれ違い、ときに分かれ、ときに再会する。そういうコネクトの配置と再配置が繰り返されて、私たちと本の関係性は構築されていきます。面白かったら面白いでいいし、よくわからなかったらよくわからないでいい。その感覚を大切にして、自分の心と素直に向き合えばいい。むしろ、読書の意味みたいなものを先に固めてしまうと、本との関係性はずいぶん不自由になってしまうはずです。
だから、個人的には「ちょっと読んでみようか」という気持ちを大切にするのが良いと思います。古典でも、最新のベストセラーでも、関心のアンテナが向いたらちょっと手に取ってみて、中身をペラペラめくってみる。それで運命を感じたら買って帰る。それでよいでしょう。だからこそ、リアルな書店は大切でもあるのです。
というわけで、方針はただ一つ。書店を歩き回り、棚を眺めて歩く。その範囲に古典__岩波、ちくま、講談社などなど__も加えておく。これだけです。
なにせ、時の試練を乗り越えてきた本たちです。運命の出会いの期待値は決して低くはありません。