原題は『Les Identités meurtrières』。
人間が、ただ一つの帰属にのみ、自己(意識)の成立を頼るのならば、その帰属先を守るための争いは、自身の生命の維持と等しくなり、絶対的なテーゼへとなりはてる。
単に争うのではない。残虐な殺戮すらも肯定してしまう機関がそこでは生じてしまう。「私たち」と「彼ら」を区別、峻別、差別し、デジタルのスイッチのように「彼ら」を否定することで、「私たち」を肯定しにかかる。そのためならば、あらゆる行為が──おおむね正義の名の下で──正当化されてしまう。
人は複数の存在だ。複数の属性を持ち、複数の性質を持ち、複数の意識を持ち、複数の趣味を持ち、複数の(ときに相反する)価値観を持つ存在だ。それらの還元的な断片ではなく、その全体として人を捉え直すこと。個人のホーリズム。
その雑なるものを許容する眼差しは、自分だけではなく他者との関係性を結び直す役にも立つだろう。あるいは話は逆なのかもしれない。雑なる他者を受け入れるとき、はじめて私たちは雑なる自分を許容できるようになるかもしれない。純血ではありえない、自己。
文脈を剥ぎ取った「自分」と、文脈を剥ぎ取った「相手」が、「素直」に交流するのではなく、多様で複雑な属性を飲み込むいろとりどりの「自分」と「相手」が、そのときどきの文脈において交差する。そのように関係性を捉え直すこと。
帰属意識が厄災をもたらすからと言って、それを抹消しにかかるのではつまらない。あえて、それを飼い慣らすこと。アイデンティティを複雑なままにしておくこと。
この問題は、今後日本人が海外に出て行き、また海外から日本に移り住む人が増えれば増えるほど、(観点的ではなく)実際的な問題へと変質していくだろう。