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応急処置の限界とその克服

藤田孝典氏の『貧困世代』では、ずいぶんひどい状況に置かれている若者たちの姿が描かれている。ブラックバイト、非正規雇用、奨学金返済の重み、手取りの少なさ、将来への不安感……。数え上げればきりがない。

この問題がごくごく一部の話であればまだなんとかなるのだろうが、それが全体へと広がり、やがて覆せないほど固定化された格差を生み出せば、この国は二つの層に分離されるだろう。政治は不安定化し、治安は悪化し、社会から信頼が損なわれていく。そうなってからでは、再構築は不可能だ。

本書ではいくつかの状況改善に関する提言がなされているが、逆に言えばこれらが実施されなければ状況の悪化は止まらないと見てもよい。いささか苦しい事態だ。

どこまで状況が逼迫しているかはさておき、若者たちが社会に押しつぶされ、閉塞感を感じ、将来に希望が抱きにくくなっていることは、たぶん実際にあるのだろう。

すると、牧野智和氏による『日常に侵入する自己啓発』が思い出される。牧野氏は次のように書く。

(前略)自己啓発書(自助本)には、それらを読む個々人がおかれた状況を改善させるための、あるいはその時々の自らのあり方を確認するための応急処置的な機能がまずもって期待されているといえるだろう。

ここにある「応急処置的」には、ややネガティブな感じを受けてしまう。しかし、著者はそれに待ったをかける。

このような応急処置を取るに足らないことだと考えるべきだろうか。著者はそう考えない。というのは、応急処置であっても人々の不安や混乱に対処するために用いられ、部分的であっても人々の自己定義が行動の指針としてとりいれられるような対象は、今日の社会ではかなり稀有なものではないかと考えるためである。

「薄い」自己啓発書を応急処置的に読んでも、その人の専門的なスキルは高まらない。教養も増えないし、地に足のついた自信も得られない。しかし、一時しのぎの安心感は得られる。不安は静まり、混乱は鎮圧される。

「部分的であっても人々の自己定義が行動の指針としてとりいれられる」ものがあるのならば、人は前に進んでいける。結構なことだ。

ただし、人が置かれている労働環境が、劣悪なものだと話は変わってくる。ブラック企業と呼ばれるような労働者を使い捨てることが常態化している、というよりもそうしないと企業としての経営が成り立たないようなところで働く人間が、「薄い」自己啓発書を応急処置的に読むと大変なことになる。本当に必要なことは、すぐに逃げることであり、ときには会社を訴えることだ。しかし、自己啓発書は「あなたが変わると、周りも変わります」などとささやいてくる。悪いのは自分なのだ。そんな馬鹿な話はない。

ともあれ、「薄い」自己啓発書がよく読まれる背景に、若者が置かれている労働環境の劣悪さや、未来に希望を感じられない焦りがあるのだとすれば、プロブロガーやYoutuberに注目が集まるのも頷ける。第一声が「で、それって儲かるんですか?」となるのも理解できる。それぐらいの切実さがあるのだろう。

ここで私は悩むことになる。

「薄い」自己啓発書が応急処置的な意義を持つことは理解できる。それは必要な人にとっては必要なのだろう。でも、本当にそれだけで良いのだろうか、と。つまり応急処置だけで済ませておいて良いのだろうか、と。

最終的に必要なものは、抜本的な問題解決であろう。それは大きな土俵では政治の話であり、小さな土俵では価値を生み出せる力を得ることだろう。そして残念なことに、「薄い」自己啓発書はそのどちらの方向にも向かってはいない。

牧野氏が『日常に侵入する自己啓発』の後半で指摘しているように、自己啓発書の関心は「自己」にある。自己のみにあると言ってもいい。

いずれにせよ、啓発書がまずもって私たちに示しているのは、自分自身の変革や肯定に自らを専心させようとする一方で、その自己が日々関係を切り結ぶはずの「社会」を忌まわしいものとして、あるいは関連のないものとして遠ざけてしまうような、そのような生との対峙の形式なのではないだろうか。

ここに日本の自己啓発書の限界がある。それはどのような社会参加も促さない。あるいは自己の利に叶うものにのみその動機付けを行う。自分が注意を払わない、関心を持たない、心理的距離感が遠い人のことなどどうでもよいのだ。ちまたの自己啓発書を10冊ほどぱらぱらと覗いてみるといい。どこにも「選挙に行きましょう。よく吟味して投票しましょう」などとは書かれていない。それはぜいぜいよくいって自分以外の誰かが解決すべき問題であり、もっと言えばそもそも問題として認識されてもいない。

『貧困世代』で藤田氏は、選挙権が18歳以上に拡大することに絡めて、若者が声を上げることの重要性を説いている。が、「薄い」自己啓発書はそうしたものを提示しない。ここに根深い問題を感じとれはしないだろうか。長期的な解決において必要なリソースが、すべて応急処置に回ってしまっているような状況がありはしないだろうか。

だったら、どうすればいいのか。一人の書き手として自問せずにはいられない。

「薄い」自己啓発書を薄くしなければよいのだろうか。どう考えても、それはマーケティング的に悪手である。期待されるもの以外を提供しても、誰も手を伸ばさないし、むしろミスマッチを生じさせてしまう。

だとしたら「薄い」自己啓発書に薄くない成分をこっそり混ぜるか__野菜嫌いの子どものために刻んだカボチャをサラダに加えることをイメージして欲しい__、あるいは自己啓発書のマーケティング外の何かで勝負するかだ。

それが何なのかは私にはわからない。だから、私は本を書き続けているとも言える。いろいろな引き出しをあけて。

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ
牧野 智和 [勁草書房 2015]

貧困世代 社会の監獄に閉じ込められた若者たち (講談社現代新書)
藤田孝典 [講談社 2016]

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