今ではすっかり見慣れた風景になってしまったが、最初みたときは何じゃこれと思ったタイトルである。
インパクト先行の中身のないタイトルのようにも思えるのだが、読み進めていくうちにジワジワと考えは改められていく。それは別に、タイトルとは無関係に内容はしっかり面白いという話ではなく(面白いわけだが)、むしろこのタイトルの深さに気がつかされるといった感じだ。
タイトルの発言者は、自問している。自分の持っている価値観が、正当なのかに疑問を抱いている。このタイトルが意味深長なのは、何と出会うかが明かされていないからだ。一義的には異性との出会い、であろう。確かに主人公ベル・クラネルはダンジョンの中で憧れの女性と出会う。そこから巻き起こる数々の事件で、軽いハーレム状態に進んでいくのだが、それはラノベのある種の作法であるのでイチイチ気にしていても仕方がない。
ともかく彼は憧れの女性だけではなく、仲間とも出会っていく。ダンジョン攻略を契機とした、出会いの広がり。その出会いは、とある巻で劇的に広がり、ベルにさらなる飛躍をもたらすのだが、それは先走りすぎだろう。ともかく、最後にはきっとベルはダンジョンそのものに出会うはずだ。それが何を意味するのかはさておき、本作はベル・クラネルの英雄譚であると共に、ダンジョンにまつわる話でもある。だから、タイトルはまったく間違っていない。
本作はファンタジーなのだが、ハイファンタジーというのではなく、むしろゲーム世界によくあるファンタジーがモチーフになっている。東浩紀氏は「ゲーム的リアリズム」という概念を提出したが、その言い方を借りれば「ゲーム的ファンタジー」と言えるかもしれない。レベルアップの概念、いくらでも湧いてくるモンスター、使用回数に制限のある武器、習得される魔法やスキル。ゲーム世代には馴染みのある世界観をベースに、メタ英雄譚が語られていく。
そうなのである。本作は、純粋で真っ直ぐなファンタジーであるものの、英雄譚がメタな構造で用いられている。英雄に憧れる少年が英雄になっていくストーリーなのではあるが、為した功績により英雄が生まれるのではなく、むしろ英雄であることへの神々の期待が先行する形で彼は英雄になっていく(あるいはそう仕立て上げられる)。その流れにベル・クラネルがいかに抗うか(作られる物語以上の物語を生み出せるか)という構図も合わせて持っている。とは言え、これも少し先走った話である。
いささかひねくれた構図を持つ本作ではあるが、だからこそゲーム世代が楽しめる作品になっているのだろう。ゲーム的ファンタジーを用いることで、大きな想像力的負荷なくその世界に入り込めると共に、ひねりが効いているからこそ単純にはならない。塩梅がいいわけだ。
アニメ版では、あの紐のビジュアルとCV.水瀬いのりのタッグのせいで、作品の内容以上に話題が先行してしまい、結局この作品はなんだったのか、みたいな話題がすっとばされてしまった感があるが(それくらい強力なタッグであったことは否定できない)、改めて原作を読み返してみると、真っ直ぐさとひねりがうまく絡み合った作品であることがわかる。
とは言え、読書中はずっと、登場人物の声はすべてアニメ版のCVで私の脳内で再生されていたことは言うまでもない。アニメもアニメでやっぱり面白いのである。
大森藤ノ イラスト:ヤスダスズヒト [SBクリエイティブ 2013]