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ロングテールとリトル・ピープル (3)

そもそもなぜ私たちは「物語」を欲するのだろうか。

重要なのは、「物語」は私たちにどのように作用しているのか、という点だ。

『意識と無意識のあいだ』(講談社)において、マイケル・コーバリスは、次のように語る。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)

私たちの祖先は「認知のニッチ」を確立した。知識を共有し、物語を伝えることでアフリカのサバンナという危険な環境を生き抜いたのだ。物語は人びとの結束を固め、文化を形成する。どの文化にもそれぞれに英雄と発見の物語があり、それらをとおして祖先を共有しているという意識が確立される。

ダンパー数で有名な、ロビン・ダイパーも『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト)の中で、似たような論点を強調する。

人類進化の謎を解き明かす

物語をして聞かせるということ(それは歴史上のできごと、祖先、自分たちが何者でどこからやって来たか、未知の地に住む人びと、自分たちが直接経験できない精霊の世界の住人のいずれにかかわるかによらず)は、共通の世界像を共有する人びとのネットワークによって私たちをつなげて共同体意識をつくり上げる。

『神話の力』(早川書房)でも、ジャーナリストのビル・モイヤーズが、物語を「世界とうまく折り合いをつけるために、自分の人生を現実と調和させるため」のものかと問い、神話学の大家であるジョセフ・キャンベルはそれに「そう思います」と応じている。

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

つまり、社会における物語とは、この世界がどうなっているのか、その中で自分はどのように位置づけられるのかを内的に記述するのを手助けするツール(マクルーハンならメディアと呼ぶだろう)なのだ。簡潔に言えば、私たちは物語を通じて世界を理解し、自分をその中に位置づける。「隣の村の奴らは敵だ」「俺はこの村の英雄だ」__こうした内的な理解は、辞書的な意味としてではなく、物語の文脈として理解される。

逆に言えば、そうした物語抜きには、人は世界の理解も、自身の位置づけもできなくなる。あるいは、著しく困難になる。

欲される物語

だから、単に「大きな物語」を駆逐しただけでは、話は終わらないのだ。「大きな物語」を喪失した人々は、内的な記述を支える基盤を失ってしまう。そのような状態はぐらぐらと揺れて非常に不安定だ。だから、何か別の物語を求めることになる。それはおそらく手軽に入手できる何かであろう。

宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』の中で、こんな風に書いている。

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

つまり、ここで言う「枠組み」というのはかつてビッグ・ブラザーが体現していた大きな物語であり、「精神的な囲い込み」「檻」とはその大きな物語が喪失した結果、その生に意味を見出せず性急に目の前にあるものにすがろうとする人々が依存する(大きなものに支えられない)「小さな物語」である(たとえばオウム真理教などのカルト勢力)。

一番わかりやすい例は「一億総中流」という物語だろう。この物語は、マスメディアが生み出した完全なる幻想ではあるが、その幻想がマスに共有されているとき、「自分はそこそこ良い暮らしができているのだ」という位置づけが可能となる。それによって精神的な安定感も得られる。

バブル崩壊後は、「一億総中流」という物語は機能不全に陥っていったが、それでもまだマスメディアは物語を伝える程度には機能していた。そこで、「勝ち組・負け組」という物語が生まれた。二つに分離されてはいるものの、それでもまだ「自分は勝ち組だ、あいつは負け組だ」といった記述は可能になる。それによって、それなりの規模の連帯感も発生する。これもまた「大きな物語」の一つである。

このようにマスメディアは、まさにマスに対する、マスの規模の連帯感(共同体が存在し、自分がそこに所属しているという感覚)を生み出してきた。そして、それらのメディアが力を失えば、そうした連帯感もまた消失していく。

そして、その消失を埋めるのが何なのか、というところで問題となってくるのが、ロングテール的文化である。

(つづく)

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