2003年に晶文社から発売され、2009年にはちくま文庫から発売されています。
著者の西村佳哲さんは「働き方研究家」と、怪しげなコンサルタントみたいな肩書きになっていますが、これは自称で、実際はデザイン関係のお仕事をされているとのこと。そうした仕事と並行して、「働くこと」に関する著作も多数執筆されており(※)、本書もその中の一冊です。
※Amazon著者ページ
内容を一言でまとめるのは難しいのですが、えいやっと書けば「いい仕事」探検です。「いい仕事」の現場を訪ね、働く人にインタビューし、著者がそこから考察を立ち上げる、という形になっています。働き方を紹介した本はいくつもありますが、考察部分の深さが本書の特徴と言えるでしょう。
この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだから、世界が変わる方法はどこか余所にではなく、じつは一人一人の手元にある。多くの人が「自分」を疎外して働いた結果、それを手にした人をも疎外する社会が出来上がるわけだが、同じ構造で逆の成果を生み出すこともできる。
ひねくれ者の私としては、後者の主張には反論を述べたくなります。川の流れに沿って泳ぐのは簡単だけど、逆向きに泳ぐのは大変だ、という反論です。それでも、この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだ、という点は同意します。大いに同意します。
この世界はたくさんの「仕事」で成り立っています。つまり、「仕事」をするということは、この世界にコミットするということです。言い換えれば、個人が世界とつながるための一つの手段が「仕事」なのです。
もちろん、この「仕事」は幅広い意味で使っています。労働の対価をもらえる作業、という狭い意味ではありません。Linuxのようなフリーかつオープンソースのソフトウェア開発に協力していた人も「仕事」をしていたと言えるでしょう。そうした有償・無償の「仕事」がこの世界を形成しています。
つまり、「仕事」について考えることは、この世界について考えることにつながるわけです。
また、人間が「仕事」をするためには時間が必要です。人生という限りある資源を投下しなければなりません。ということは、「仕事」について考えることは、自分の人生について考えることにもつながります。
結果、「仕事」を媒介にして、自分の人生と世界(と仕事)とが有機的に絡み合うことになります。
しかし、この絡み合いがうまく生まれないこともありえます。
先ほどの引用部分で、著者は”多くの人が「自分」を疎外して働いた結果”と述べていました。
「自分」を疎外する、とはどういうことでしょうか。
たとえば、私の場合で考えてみましょう。物書きの仕事です。
どこかの編集者さんから、「今のブームはこれです。それにこういう書き方の本が売れます。この企画は間違いなくヒットします」と企画案を持ちかけられたとしましょう。しかし、私はそのテーマにまったく関心を覚えないし、その書き方が良いものだとは思えないとします。
でも、しがらみだとか金銭的状況だとかその場の勢いとかでその本を書いたとしましょう。そうして完成した本は、「自分」が疎外されています。どれだけ私の文体で書いてあったとしても、そこに「自分」はいません。それは、自分が考えた企画案ではない、ということではなく、心の底から「これは本当に良い本ですよ」と自分で言えないということです。
ようするに「他人事」の仕事なのです。
もし自分がその本の著者でなかったら、書店で目に留めてすぐさまレジに持って行く、という本が書けたのならば、それは「自分」が疎外されていません。ものの作り手なら、自分が実際に使いたいと思うもの、食べ物の作り手なら、自分が食べたいと思うもの。そういうものを生み出すのが、「自分」が疎外されていない仕事です。
「自分」が疎外されていても別に気にしない、お金がもらえれば良い、という現実的(と言っていいのかどうかはわかりませんが)な人もいるでしょう。しかし、自分が疎外されていると、一つ困った問題が起きます。
たとえば、先ほどの仮想の本を出版したとします。そして、(編集者さんの予想通り)売れたとします。そして、読者さんに「本当に面白かったです」と言ってもらえたとします。
そのとき、私はどんな感じがするでしょうか。素直に喜べるでしょうか。自分が世界とうまくつながっている感覚を持てるでしょうか。いささか難しいかもしれません。
自分で良いと思えるものを作る。
というのは、表現を変えれば「矛盾のない仕事」ということです。先ほどの例は、価値観の矛盾がない仕事、と言えるでしょう。こういう仕事は続けやすいと思います。
逆に、矛盾のある仕事はどこかで無理がやってきます。
たとえば構造的に矛盾がある仕事__代表例はネズミ講__は破綻前提の「ビジネス」です。他にも、価値のないものを煽るだけ煽って売る、という手法も構造的に無理があります。煽りの正体がバレれば一気に売り上げダウンです。効率良い金儲けの手法なのかもしれませんが、短期間しか成立しえないものです。
「矛盾のない仕事」あるいは、「矛盾の少ない仕事」というのは、いろいろな意味合いにおいて続けていきやすいものです。そして、それは世界と私たちの関係性をも作ってくれます。
もちろんこんな話はただの夢物語だ、と切り捨てる人もいるでしょう。世の中綺麗事じゃないんだ、と。特に組織の中で働いていると、上のような話はむしろ邪魔にすらなるのかもしれません。でもって、それが現代社会の抱える課題(あるいは病)の一つでもあるのでしょう。
理想で言えば、自分の価値観にとことん合わない企業は辞めてしまうのがハッピーです。しかし、そのハッピーさの代わりに、別の仕事を見つけなければならない苦難を背負い込みます。もしかしたら、自分の価値観に合う企業がどこかにあるのかもしれませんが、それをうまく見つけられるとも限りません。
だから、矛盾を感じていても、あるいは大きな違和感を抱えていてもそこで仕事を続ける。特に日本社会では、一つの企業に勤め続けた方が経済合理性が高いので、そういう行動が誘発されやすくなります。
でも、そんなことは人生のルールブックには載っていないのです。
もちろん私は「みんな窮屈なサラリーマンなんか辞めて、独立しましょう」と主張したいわけではありません。そういうのは他人の人生に責任を負わないでよい立場から好き勝手に言っている人たちの言葉です(※)。
※どうしても納得できないならフリーになってみてもいいかもよ、とは思います。
また、「自分らしい生き方」とか「好きなことを仕事に」みたいな話とも違います。そうしたものは自意識が前に出すぎています。
仕事を通じて、自分を証明する必要はない。というか、それはしてはいけないことだ。(中略)仕事とは自分を誇示する手段ではなく、自分と他人に対するギフト(贈与)であり、それが結果としてお互いを満たす。これは理想論だろうか。
著者は修辞的に疑問を投げかけてはいますが、その心に確信があることはうかがえます。
仕事について考えるのは難しいことです。なにせ、世界と人生について考えることにつながっているのですから。
でも、それはどこかの時点で向き合う必要がある問題なのでしょう。特に、これからの社会で働く人はなおさらそうだと思います。
One thought on “『自分の仕事をつくる』(西村佳哲)”