徹底的にKindleのみで読書するようにしたら、読書に劇的な変化が起こった | シゴタノ!
しかし本というのは、そうなるのです。本が変わるたびに、フォントが変わる、フォントサイズが変わる、本の重さが変わる、ページの白さが変わる。
それがいいんだ、という人も多いのですから、きっとそうなのでしょう。しかし私の用語で恐縮ですが「ロボット」的には断じてそうではありません。
ようは、これはあれだ。コンテナリゼーションの話なのだ。
「コンテナ」が持つ力は、マルク・レビンソンが『コンテナ物語』でまざまざと語ってくれた。もちろん私たちは、「コンテナ」とその普及を後押しする力が、港の仕事を根本的に変えてしまったコンテナリゼーションという現象を、現代のインターネットに見て取ることができる。パケットは偉大な発明なのだ。
むろんその視線は、情報そのものにもすぐさま及ぶ。及ばないはずがない。
そもそも情報の規格化がもたらす力は、梅棹忠夫が『知的生産の技術』の中で早々と喝破していた。カードシステムにおける情報カードは、ようするに情報のコンテナなのである。その系譜はデジタル・パーソナルアーカイブシステムとしてのEvernoteにも脈々と受け継がれている。
情報の保管だけではない。メディアにもすぐさまその手は及ぶ。身近な例を二つあげよう。Twitterとウィキペディアだ。Twitterは直感的に分かりやすい形のコンテナだ。あの「箱」が準備されているからこそ、私たちはそこにあまたのつぶやきを投げ込む。APIも、それを利用しやすいように準備されている。
ウィキペディアだって、フォーマットを持つ。フォーマットとはコンテンツを縛る鎖であり、言ってみれば箱と変わりない。少なくとも、そこに規格は働いている。だから、私は誰か声優のページを見たときに、出演作品一覧がどこらへんにあるのかがすぐにわかる。規格化の効果だ。
電子書籍とEPUBファイルは、「本」の規格化の第一歩である。こちらの好み通りに読める上、リフロー型は「自由自在なレイアウト」を遠ざける。むしろ、型にはまったコンテンツを量産しやすいのが電子書籍(とEPUBファイル)である。
だからそう、情報を効率的に摂取するという目的であるならば、書籍におけるコンテナリゼーションは大いに歓迎すべきなのだろう。なんなら「ノウハウ本のフォーマット」みたいなものを準備して、そこに当てはめるだけで「本」が完成するようにしてもいい。そうなれば、ウィキペディアと本の境目はもうほとんどなくなる。
が、本当にそれでいいのだろうか。
これは修辞疑問ではない。純粋な問いだ。だから「いい」という答えもありうる。むしろ、それが在るべき姿なのかもしれない。ただし、読書という行為が、その根源においてロボット化への反抗であるならば、本はそれぞれに個性を持っておいた方がよいだろう。突然、とんでもないものが飛んでくる可能性を有している方が、その機能を満たせる。
しかし、そういうことは本文で、つまりコンテンツの中身そのものでやるべきだ、という考える向きもあるに違いない。だから、外側は共通的に処理されていて問題ないというわけだ。私はそれに半分は同意する。
残りの半分は、外側のものが内側に浸食してこない可能性はどのくらいだろうか、という疑義にある。当分、その疑義は手放せそうにない。