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コンテンツのコンテナリゼーション

徹底的にKindleのみで読書するようにしたら、読書に劇的な変化が起こった | シゴタノ!

しかし本というのは、そうなるのです。本が変わるたびに、フォントが変わる、フォントサイズが変わる、本の重さが変わる、ページの白さが変わる。

それがいいんだ、という人も多いのですから、きっとそうなのでしょう。しかし私の用語で恐縮ですが「ロボット」的には断じてそうではありません。

ようは、これはあれだ。コンテナリゼーションの話なのだ。

「コンテナ」が持つ力は、マルク・レビンソンが『コンテナ物語』でまざまざと語ってくれた。もちろん私たちは、「コンテナ」とその普及を後押しする力が、港の仕事を根本的に変えてしまったコンテナリゼーションという現象を、現代のインターネットに見て取ることができる。パケットは偉大な発明なのだ。

コンテナ物語
マルク・レビンソン [日経BP社 2007]

むろんその視線は、情報そのものにもすぐさま及ぶ。及ばないはずがない。

そもそも情報の規格化がもたらす力は、梅棹忠夫が『知的生産の技術』の中で早々と喝破していた。カードシステムにおける情報カードは、ようするに情報のコンテナなのである。その系譜はデジタル・パーソナルアーカイブシステムとしてのEvernoteにも脈々と受け継がれている。

知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹忠夫 [岩波書店 1969]

情報の保管だけではない。メディアにもすぐさまその手は及ぶ。身近な例を二つあげよう。Twitterとウィキペディアだ。Twitterは直感的に分かりやすい形のコンテナだ。あの「箱」が準備されているからこそ、私たちはそこにあまたのつぶやきを投げ込む。APIも、それを利用しやすいように準備されている。

ウィキペディアだって、フォーマットを持つ。フォーマットとはコンテンツを縛る鎖であり、言ってみれば箱と変わりない。少なくとも、そこに規格は働いている。だから、私は誰か声優のページを見たときに、出演作品一覧がどこらへんにあるのかがすぐにわかる。規格化の効果だ。

電子書籍とEPUBファイルは、「本」の規格化の第一歩である。こちらの好み通りに読める上、リフロー型は「自由自在なレイアウト」を遠ざける。むしろ、型にはまったコンテンツを量産しやすいのが電子書籍(とEPUBファイル)である。

だからそう、情報を効率的に摂取するという目的であるならば、書籍におけるコンテナリゼーションは大いに歓迎すべきなのだろう。なんなら「ノウハウ本のフォーマット」みたいなものを準備して、そこに当てはめるだけで「本」が完成するようにしてもいい。そうなれば、ウィキペディアと本の境目はもうほとんどなくなる。

が、本当にそれでいいのだろうか。

これは修辞疑問ではない。純粋な問いだ。だから「いい」という答えもありうる。むしろ、それが在るべき姿なのかもしれない。ただし、読書という行為が、その根源においてロボット化への反抗であるならば、本はそれぞれに個性を持っておいた方がよいだろう。突然、とんでもないものが飛んでくる可能性を有している方が、その機能を満たせる。

しかし、そういうことは本文で、つまりコンテンツの中身そのものでやるべきだ、という考える向きもあるに違いない。だから、外側は共通的に処理されていて問題ないというわけだ。私はそれに半分は同意する。

残りの半分は、外側のものが内側に浸食してこない可能性はどのくらいだろうか、という疑義にある。当分、その疑義は手放せそうにない。

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