1

ロングテールとリトル・ピープル(7)

小さな物語は、個人にフィットする反面、それが閉じてしまう危険性を持っていることである。カルト的なものは外部性を徹底的に排除することで、その求心力を維持するわけだが、似たようなことはもっと弱い環境でも起こりうる。「フィルター・バブル」として問題視されている、相対する政党の意見をまったく目にしなくなるというのもその一例である。当然そのような環境では、理知的な議論など成立せず、ただ感情を修辞で飾った言葉が飛び交うだけだろう。

小さな物語は、閉鎖性へと向かう傾向があるわけだが、それを中和できれば、きちんと処理されたフグみたいに美味しく楽しめるかもしれない。それが一つの期待である。

では、どうすれば閉鎖性は中和できるだろうか。大きく二つの方向があり、それぞれは根源的には同じことを意味している。

一つ目の方向は、一人の人間が、複数の小さな物語に接することだ。カルト教団的なものの怖さは、外部性を一切排除することによって、中にいる人に他の物語に触れさせないように強いることなのだが、逆に言えば他の物語に触れてしまえば、その絶対性は中和させられてしまう、ということでもある。一人の人間が、小さな物語に複数接することによって、傾向的な閉鎖性はいくぶん和らぐであろう。

もう一つの方向は、小さな物語をネットワーク化することである。ある小さな物狩が、別の小さな物語とつながっている。それはその物語自体が閉鎖性を持っていないことも意味している。危うい自己啓発書は著者のことしか書いていないが(あるいは彼が行うセミナーの案内しかないが)、学術書は引用と参考文献で満ちあふれている。それが閉鎖性の違いである。

他の物語と接続された小さな物語は、擬似的に「中ぐらいの物語」のように機能するかもしれない。人を囲い込みはするけれども、閉じ込めない。そんな塩梅である。もし、そのような環境が生まれたら、人は小さな物語の良さを享受しながらも、それにズブズブ嵌り込むような自体は避けられるかもしれない。

前者は個人の姿勢の話であり、後者はシステム設計の話である。が、どちらにせよ、目指す状態は、一人の人間が複数の小さな物語を保有できることであり、言い換えれば、個人が複数のネットワークに位置できる、ということである。居場所を複数持てる、ということだ。

この複数は、単なる数の話ではなく、異質さを意味している。AグループとBグループに属していても、それぞれがほとんど同じメンバーで同じ価値観であれば、異質さで言えば1グループにしか所属していないことになる。言い換えれば、そこにある物語の数は1つなのだ。

そうではなく、全然違うグループに属していること。それが、その人間の物語性を豊かにしてくれる。さらに、システム設計的にそのような接続が促されるのがベストだ。

ここで、とある新しいツールの話が連想される。そう、Mastodonである。

(つづく)

One thought on “ロングテールとリトル・ピープル(7)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です