新反動主義(暗黒啓蒙)の思想的な流れが概観されている。中心となるのは、タイトルにもあるニック・ランドだが、その系譜として起業家のピーター・ティールがあげられているのが興味深い。ペイパル・マフィアのドンとして名高いピーター・ティールだが、金儲けしか考えていない空っぽの人間ではなく、むしろ実に思想的な人間だということが本書からわかる。その思想に共感するかは別にして、やはりそのような思想性が彼の強さの源泉ではあるのだろう。
さて、新反動主義である。
反動というからにはもちろん対象があるわけで、それが何かと言えば、啓蒙思想でありそれと並行して走る民主主義システムや平等主義である。そういうのって限界があるし、新しいものが必要なんじゃないか? というのをかなり強烈な方向に針を振って提示しているのが新反動主義であろう。
理路としては、たしかに面白さはある。大きな国家ではなく、小都市国家が乱立する政治システムを目指すだとか、資本主義を減速させるのではなくむしろ加速させることで(エンジンが熱暴走するみたいに)資本主義システムを自身の力で融解させるなど、アクロバティックな宙返りを楽しむようにその理路を味わうことはできる。が、実際的なことを考えると、どうにも足元は危うい。
たとえば、小都市国家が乱立する政治システムというのは、一見うまくいきそうだが、小都市国家が小都市国家であり続けることを担保するものが何もない、という問題点がある。
市場でも、一つの企業が大きくなりすぎることを禁止するための法律があり、それによってある種の健全性が維持されている。逆に言えば、そうした法律がなければ、一つの企業が市場全体を飲み込んでしまう危険性が常にある、ということだ。同じことが小都市国家群に生じないと言い切れるだろうか。
なにも頻繁に起きなくてもいいのだ。100に1つ、200に1つくらいの確率で「他の小都市国家に攻め込んで吸収し、その市民を奴隷にする」という小都市国家が生まれてしまえば、後は倍々ゲームで大きくなり、やがては帝国が登場するだろう。そんな帝国があるくらいなら、不完全で不十分な民主主義の方がはるかにマシかもしれない。
あるいは、そうした軍事活動を抑制するならば、小都市国家連合など、一つ上の仕組みを持つ必要があるだろう。結局ここでも国連的な、言い換えれば、大きな機構が要請されてしまう。思うように、自由な市場での競争はできそうにない。
唯一、そうしたことが可能なのは、全小都市国家の君主が「理性的」である場合に限られるだろう。免許や審査を経ることなく(それだって大きな機構を要請する)、たまたま君主の座に就いた人間が理性的であること。それを達成するためには、全市民が啓蒙されている必要があるかもしれない。これでは、話は一周回ってしまう。
あるいは、人間が舵取りするのではなく、『BEATLESS』が示すような超高度AIに統治を委ねる方法がある。これならば、啓蒙された精神の登場を待たなくてもいい。そして、おそらくそれこそが唯一の「解」なのであろう。
考えてみれば、これは自然な流れなのだ。行動経済学が示すように、人間の判断や行動はときに不合理である。そのような人間が寄せ集まってできる共同体が不合理性を持たないという想定はかなり無理がある。3人寄れば文殊の知恵と言うが、集合知が機能するのは多様な人間が集まった場合だけである。イデオロギーに凝り固まる人間がどれほど派閥を組もうとも、集合知は機能しない。つまり、人間の愚かさは個人レベルでも組織レベルでも維持され続ける。
そのような人々が投票権を持つのだから、民主主義だって不合理な結果になる。それは民主主義の失敗などというものではなく、人間が人間である限り生じるほとんど前提のようなものなのである。
啓蒙主義の問題点は、そのような人間存在に理性を期待し過ぎているところにある。だから当然のように反動が起きる。その反動は、民主主義の否定といったシステム的なものだけではなく、人間が決定に関与するのを止めるような(つまりシンギュラリティ的な)ものもあるし(『PSYCHO-PASS』の世界だ)、もっと言えば、『ホモ・デウス』や『ある島の可能性』が示すような、人間存在の超越(≒人間から愚かさを取り除いてしまう)への希求へともつながっていく。
これは、人間の不合理性を前提とせず、理性は身につけられるものであり身につけるべきものである、ということを前提とした上で組まれているシステムがそこにある以上、必ず生じる反動であろう。啓蒙思想であれ、新反動主義であれ、何か中途半端や不完全なものがそこにあってはいけない、という完全性への欲求がある。それがどれだけ現実から乖離していても、いや乖離しているからこそ、それを強く求めてしまう。言うまでもなく、それもまた人間の不完全性なのである。
■
著者は、加速主義について以下のようにまとめる。
加速主義は資本主義リアリズムのヘゲモニーが確定した時代、言い換えれば共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想なのである。
今や資本主義は「主義」ではなくなっている。それは現実の社会を記述する上で、もはや前提となってしまって、いちいち意識されないものである。ライバルだった共産主義が倒れたことで(そう言っていいだろう)、もはや資本主義は空気のようなものになってしまった。
しかし、資本主義はすべてを満たしてはくれない。だから、不満を持つ人間は必ず生まれる。100年前に生きることに比べて、私たちが圧倒的に生き延びやすい状況を手にしていたとしても(『ファクトフルネス』をあげるまでもないだろう)、それが不満の炎を鎮火させることはない。人間は不完全であり、その集まりもまた、常に不完全であるのだから。
新反動主義の思想は、若干滑稽そうに思えるが、だからといって無視していいものではないだろう。少なくとも、その思想の誕生は、私たちが資本主義との対峙の仕方を忘れてしまっていることを如実に表している。そこになにか致命的なズレが生じていることを、あるいはその影を示している。
今後この日本でも、未来に希望を持てない人間が増えていくならば、このような思想に共感する人もまた増えていくだろう。ビジョンというものは、──たとえそれが何色をしていようとも──人を引きつけるのである。